TaoChat@1137編集後記

今日は朝から暑く、扇風機をかけながら、このブログを書いている。昨日散歩していたら、つくつくほうしのセミの声が聞こえてきた。暑い盛りを越えて、秋が近づくと出てくるセミのようだ。興膳宏氏の「漢語日暦」(岩波新書)の8月28日の言葉に寒蝉(かんせん)が出ていて、秋に近づくと鳴くセミをそう呼ぶと書いてあった。ひぐらしの声はまだ聞かないが、長野あたりの森にいくと、今頃聞こえるかもしれない。ひぐらしの声は私は大好きで、もの哀しく聞こえ、涼しく聞こえる。どことなく魂の声のようにも聞こえる。かなかなかな・・・・と「ご先祖様が、みんな仲良く元気にしているかえ~」と語っているように聞こえる。この一週間は、中村警視庁長官が安倍氏襲撃の警護不備の責任をとって辞職し、安倍氏国葬はなし崩し的に行なわれることになり、渋谷では死刑になろうと女子中学生が刺傷事件を起こした。これらのニュースを聞き、大事件が起きないと物事は大きく変革されないということがわかる。国葬に値する人間だったら、警護を地方警察にまかせるわけがないと考えるのが至極当然である。ところが、日本の仕組みはあちらこちらでチグハグしている。全く一貫性がない。国葬は当たり前だと自民党の二階氏はいい、反対する奴はバカと豪語する。国民から選ばれた議員が国民をバカ呼ばわりするほど、チグハグなことはない。バカな議員を選出したから国民はバカであるというならうなづける。個人的な出来事では、村上春樹氏の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を読み始めた。動物の頭骨から記憶を読み出すというストーリーは奇抜で、計算士の私と、夢読みの僕とが並行して、ストーリーをつなげていくというスタイルに新鮮味を覚える。どこで二人がつながるかが楽しみである。

今回の言葉は、荘子より選んだ。これも「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」の影響かもしれない。とにかく夢がキーとなるので、荘子の夢につながってしまったのかもしれない。自分の経験から言って、夢を現実にするのは、あるチャンスに出会ったときに、どういう選択をするかで決まると思われる。この選択は、自分だけでなく、周りの人間の意見も大いに参考になる。しかし最後は、自分が乗るか乗らないかで決まる。荘子の言葉は意味深である。人生は夢であることは認める。夢であるからどんな苦難にも耐えられる。夢だと認めるためには、覚めた眼が必要になる。これが大覚なんだと思う。荘子の死生観ともつながる。自分は自然という道にとって、あやつり人形という存在だと認識することが大事になる。先週のアインシュタインの言葉で言えば、笛吹きが「道(自然)」で、かなでる音楽にあわせて踊るのがあやつり人形である。村上春樹氏の主人公は、覚めた眼でいつも踊っていることを自覚している。こんなふうに考えると、荘子アインシュタインと春樹氏の小説の主人公の、人生観がつながってくるように思えてくる。