涼しい朝を迎えた。
ポロシャツに短パンだと、汗一つかかない、清清しさを覚える。
昨夜は、元の会社のときお付き合いしていた業者の方と、茅場町で飲みました。
年齢は23歳ほど違うが、10年ほどの付き合いなので、話は開発品から政治に更にスマホに及び時間の経つのを忘れてしまった。
10月から消費税率が上るが、家計は確実に締まるだろう。
その対策に、軽減税率とか、ポイント制とか消費刺激策が打たれるが、複雑すぎてわからない。
今回の言葉は、今読んでいる本で見つけた新約聖書の言葉を選んだ。
キリストは譬えを用いるが、直接表現しないことで、ひとによっていろいろ解釈がなされる。
信仰が深まると、それに応じて、キリストの言葉は意味を深める。
信仰は、キリストの言葉を読んだり、覚えたりすることではない。
キリストの言葉を実践して、キリストの言葉の意味を深めることにある。
今読んでいる本は、絵画とそこに書かれる物の意味を解説する本で、天秤の章に今回の言葉が書かれていた。
天秤は、さおの一方に分銅を下げ、他方にものを吊り下げ、ものの重さを量る道具である。
自分の天秤とは、自分の尺度みたいなもの。
自分の分銅いかんで、ものの重さは変わる。
天秤で量ったものは自分に与えられる。
自分の天秤を神の天秤に近づければ、更に多くのものが与えられる。
神の天秤ではかるものとは何か?
それは慈愛であると思われる。
それでは、神の天秤とは何か?
神が動かしている自然に現れている、神の慈愛を汲み取る道具である。
汲み取った慈愛を他者に施したとき初めて、神の天秤となる。
量っただけでは、慈愛は増えていかない。
他に施して初めて、慈愛は増えていく。
老子の道にも、慈愛はある。
道は人間にとって厳しい環境を与えるときもあるが、創造主が与えた試練と考えれば、それも慈愛と感じられる。
万物に宿る霊魂を動かすエネルギーの流動が気である。
気の働きは万物の生成と消滅を永遠に繰り返すから、そこには不変の慈愛が宿ると考えてもよいのではないか。