TaoChat@1069編集後記

5月連休が終わり、何となく落ち着いた週末を迎えた。

天気もよく暑い日になる予報も出た。

世の中は緊急事態宣言が5月末まで延長されたが、菅首相の言葉には五輪開催は押し切るような意志が感じられる。何が何でもといった様子である。

変異種がまん延し、ワクチン接種が低迷する中で、最悪の状態で五輪開催となるのは想像するに難くない。五輪開催を期に、五輪記念変異種が生まれることもあり得る。

なるようにしかならないのがこの世のことなので、自分の身は自分で守ることが残された道になる。

今回の言葉は、漱石の俳句から選んだ。今、大岡信氏の「瑞穂の国うた」(新潮文庫)を読んでいて、漱石の句が紹介されていたのがきっかけです(ただ、今回の句は本には紹介されていません)。漱石と子規との友情についての文章は面白い。アイデアを重んじた漱石と、レトリックを重んじた子規という対比が読み応えがある。今回の句も荒削りだが、アイデアにほっこりする。

イデアにはユーモアがなければいけない。「我輩は猫である」も「坊っちゃん」もユーモアにあふれているが、筋を通すというアイデアが背骨になって生きてくるユーモアである。猫には最後まで名がない。坊っちゃんは親譲りの無鉄砲で最後まで損ばかりしている。人間というもの、あっちにふらふら、こっちにふらふら、思い悩むものだが、背骨となる基本姿勢をもっていれば、そこに立ち戻って物事を考える事ができる。その背骨から発するユーモアには深い味が出てくる。