朝鮮統一その2

朝鮮統一で思い出したのが、ベトナム戦争である。

つい最近ベトナムカンボジアに観光に出かけた。

私のベトナムのイメージはベトナム戦争が強烈である。

私が高校生の頃は、沖縄の嘉手納基地からB52が飛び立ち、ベトナム爆撃が毎日行われていた。落とす爆弾もナパーム弾で、ジャングルを焼き払うもの。また枯葉剤を大量に散布して、田畑を枯らすこともやり、今でも、人間の染色体異常により、奇形の後遺症が残っている。そういうわけで、アメリカは冷戦のためか知らないが、ベトナムではひどいことを行ってきている。

当時のベトナムは、ホーチミンの率いる共産主義北ベトナムと、アメリカが軍事基地を持つ南ベトナムに分断されていた。

北ベトナムはベトコンというゲリラ活動で南ベトナムに侵入し、アメリカ軍を脅かした。アメリカ軍にとっては、南ベトナムの村民なのか、ゲリラ軍なのか、判別できない。そこで、ソンミ村全員をゲリラと考えて、大人から子供まで虐殺する暴挙までやってのけた。しかし、北ベトナムの猛攻に負けて、アメリカ軍は撤退し、北ベトナムベトナム民族統一を成し遂げた。

朝鮮民族の分断も、日本の植民地支配が日本敗戦により終結したと同時に起こった。

これも冷戦のためで、北は中国共産党のバックアップで、北朝鮮南朝鮮に攻め入った。目的は、朝鮮民族解放のため、朝鮮民族統一のためである。

アメリカは南朝鮮(韓国)に軍隊を派遣し、朝鮮戦争が始まり、すったもんだのあげく、38度線で休戦協定を結んだ。

北朝鮮も起こりは共産主義だが、共産主義世襲制の独裁主義に変貌した。

それが北朝鮮が核保有化の道を歩くきっかけになった。

歴史の流れからすれば、朝鮮民族統一はいずれ実現すると考えられる。

戦争なしに統一するには、北朝鮮人民の意思が重要となる。

このまま、独裁政権を許すのか否かに関わってくる。

イラクフセイン独裁政権のように、核兵器保有を理由に戦争をしかけるわけにはいかない。北朝鮮人民が、反独裁政権のゲリラ展開するしかない。

韓国が、北朝鮮を取り込み、北朝鮮県の県知事に金さんを任命するという手もあるが、独裁を行っている金さんが承服するわけがない。

何のために犠牲を払って、切り札の核兵器開発してきたのか、わけがわからなくなる。

それをするなら、中国の傘下に下り、北朝鮮自治区として、独裁政権を認めてもらったほうがよいと判断するかもしれない。中国の一部なら、核兵器の基地の存続も可能である。アメリカや日本に対し、核基地の最前線になる。

ということで、朝鮮民族統一を朝鮮民族みずからどの程度真剣に考えているかで、朝鮮民族統一の可能性は決まる。

民族統一より独裁政権維持をとると、中国の傘下に入り民族統一をあきらめるか、核兵器を切り札に使って、援助をもらって、北朝鮮人民の支持を得るかするでしょう。

独裁政権維持よりも民族統一をとるなら、韓国の傘下に入り、自治区の親分に成り下がるか、独裁政権を廃止し、北朝鮮人民の民主化を図らなければならない。そのとき、金さんの居場所はなくなる。

朝鮮統一に部外者として思いを巡らすと以上のような筋書きになる。

 

 

 

TaoChat@908編集後記

4月初のメルマガである。

こちらは桜の季節は終わってしまったが、蕪村の句で日本人が感じる桜をお届けした。

戦時中は、「散る桜」は国のために命を捧げる軍人を思い出させた。

桜は、日本の国花であり、日本人の心の中にある特別なイメージを想起させる。

義父が亡くなったのも、桜の頃だった。

葬儀場からの帰り道、桜並木がきれいだったのを覚えている。

悲しみとともに、桜の散るように旅立ったとぼんやり思った。

最近、闘病中だった、高校のクラスメートの女性が旅立った。

卒業後、同窓会開催に永年お世話をしてくれた方である。

桜がきれいと近所の公園に花見に出かけて帰って来たところに訃報のメールが届いた。

桜の頃の死は、花とともに旅立つ方を見送るという思いを起こさせる。

桜の木は人間よりも長生きする。

毎年人間の死を美しい花で見送ってくれる。

蕪村の句は、風に散る桜と無風でも散る桜を詠う。

風があってもなくても、美しいのは「散る桜」である。

国があってもなくても、美しいのは「散る桜」である。

どうしてか考えると、自然は常に移ろい、美しさを再生するからと気づく。

「散る桜」をひとに置き換えると、ひとは限られた期間しか生きることができないが、その中で精一杯生きて、次の世代に何かをバトンタッチして、再生していく美しさといえるのではないか。

東日本大震災からの再生も、「散る桜」の繰り返しの果てに成し遂げられるのではないかと思ってしまった。

 

 

朝鮮統一

経済制裁の効果なのか、北朝鮮が態度を軟化して、米国に寄り添ってきた。

段階的非核化というえさで、制裁の停止と経済援助をいつものように要求してくるのは見え見えである。

そもそも訳がわからないのが、韓国の対応である。

韓国が非核化の主導権を握ろうというのだろうか。

南北融和という芝居を究極目標の南北統一につなげようというのか。

北朝鮮は独裁国、韓国は民主国であり、東西ドイツのように簡単に統一には届かない。

経済的にも圧倒的な格差があるから、統一すると韓国経済は崩壊する。

だから、日米から経済援助を得ることを前提に統一を考えているのは当然である。

経済援助を得るには、非核化が前提になる。

非核化すると、北朝鮮は国家安定の切り札を失う。

そもそも独裁政権を維持して、国家統一はありえない。

ひとつの手は、金一族の自治区を何処かに作って、追放ではなくリザーベーションという保護区を作れば問題は解決する。

こんなことが実際に起こりえるかというと、100%ありえない。

この問題を真剣に考えている朝鮮民族がいるだろうか。

花のれん

NHK番組の「わろてんか」が今日終わりましたが、その原作の「花のれん」を同じ日に読み終えました。吉本興業の創設者の多加さんの苦節のドラマでした。

山崎豊子さんの大阪弁の文体が小説にリズムを加えています。

わろてんか」のほうは通して見ていないので、原作と同じかはよくわかりません。

寄席に安木節を演目に取り入れたところとか、関東大震災のときに東京の芸人を支援したこととか、通天閣を買って花菱亭の顔にしたこととか、それを解体して鉄材を軍隊に提供した話とか出てきます。

それらすべてが、お笑い興行を拡大して大阪の顔にしたドラマを構成し、多加さんのきりもりが目の前で展開するようで、小説を読むというより舞台を見ているようでした。大阪弁が臨場感を豊かにしています。「わろてんか」を見たかたも一読の価値アリです。

TaoChat@907編集後記

桜の花も満開で、暖かな3月最後の日を迎えた。

今回の言葉は、新生活スタートの方に送ろうと決めていた。

荘子の後だから老子にしようと決めた。

第24章の言葉は、これまでも何回か使った事がある。

無理して急いでも長くは続かない。

現代人にはうってつけの言葉である。

そんなに急いでどこにいく?

 長く続けられるのは、自分の身の丈にあった、ペースでこつこつやるしかない。

無理して背伸びしても、所詮無理は長続きしない。

例を挙げれば、高額の住居をローンで得ても、期待した給料の伸びは得られず、結局負債地獄に陥る。自分の収入に合ったローンしか組めない。

それをへんな背伸びを前提に借金するので、にっちもさっちも行かなくなる。

それでなくても、人生この先何が起きるかわからない。

そのための貯蓄をローンと平行にしていかねばならない。

であるから、新入社員は長期的に自分のライフプランをスタート時に描いておかねばならない。

メルマガでは、善き師を見つけることが大事と言った。

どのように自分のライフプランを立て、どのようにそれを遂行しているかをそばで眺められるのが、善き師である。

大事なのは、会社で出世することではない。

出世は結果である。

出世の前に、会社で何をして、社会にどのように寄与するかを考えることだと思う。

会社で学んだことは将来活きてくる。

新入社員ほど、新鮮な目で会社の課題を見ることができる。

会社のしがらみに染まる前に、会社で何をして、社会にどのように寄与するかを決めている人間を見つけたい。それが自分にとって善き師になるはずである。

 

TaoChat@906編集後記

「春眠暁を覚えず」というが、暖かくなってよく眠る。

昨夜10時にふとんに入って、起きたら6時だった。

6時間も眠れば十分だったが、8時間も寝たことになる。

暖かくなって虫が眠りから覚めたようだ。

今回は、荘子を選んだ。

斉物論から言葉を探した。その理由は、スケールの大きいモノの見方が書かれていて、新春のスタートに合っていると思ったからである。

でも、選んだのは「朝三」の話だった。

これは日常生活でしょっちゅうお目にかかる場面だから、目を引かれた。

荘子には、猿と猿使いの話が出てくる。

猿は、日常の自分である。

目先の得に目を奪われて、あくせくする。

一番当てはまるのは、高速道路における渋滞時の車線変更である。

空いている車線に車を移動して、隣の車より10メートル先に行く。

隣の車はさらに車線変更してさらに先を行く。

30分して、高速道路から降りて料金所についてみると、自分を追い越した車が、後ろにいたりする。

目先の得に目を奪われて行動するが、長い目でみれば、思った以上に損得は帳消しされている。

実際にはあくせくしているときに、追突事故を起こしたりする。

そんなときに「朝三暮四」を思い出したい。

ギャンブルも同じ。

カジノでスロットマシーンで大勝ちしているが、時間が経ってコインのバケツを見ると、空になっている。目先の幸運に目を奪われると、元手がマイナスになっても気づかない。元手が無くなった時点でやめるのが得策。授業料を払ってギャンブルできたと思えばよい。

そういえば、カジノは宿泊料、食事、飲み物が無料のところもある。カジノで負ける金額が宿泊料、食事、飲み物の合計の金額を上回れば、カジノの儲けになるから。

だから、美味しい話があるときは、「朝三暮四」を思い出したい。

自分が猿扱いされていないかのチェックである。

TaoChat@904編集後記

3.11東日本大震災から7年目になろうとしている。

あの日を境に人生が一転した方々を取り上げた番組があちこちで放映されている。

福島原発放射能汚染で故郷を追われた方は、あの日を思い出したくないかもしれない。

わたしも帰宅困難になり、家にたどり着いたのが夜の10時過ぎだったと記憶している。

その後、輪番停電になり、ろうそくで夜を過ごした記憶も残っている。

しかし、一番考えさせられたのが、生と死のことだった。

従って、今回は、それを考えさせる言葉を「淮南子」に見つけた。

大災害に直面し、生と死のはざまを漂い、運よく生き残った者に捧げる言葉である。

生き残ったことに罪悪感を覚え、心の傷を負う事もある。

生き残ったことは、生き残れなかった者からバトンを託されたことでもある。

身体は離れ離れになったが、心には生き残れなかった者の思いが残る。

それを自分なりに大事にして、生きる糧にする。

死者の精神は生き続ける。それがバトンを引き継ぐことだと思う。

前回は、読書の意味を考えた。

本には死者の精神が詰まっている。名著と呼ばれている本の著者はとっくに亡くなっている。しかし、著者の精神が各世代で引き継がれている。

その歩みが、家族ベースで引き継がれるのが、「淮南子」がいう精神だと思った。

その時の死者の精神は、言葉で表現するというより映像で表現されている。

自分がその映像を記憶し、それをどう解釈するかで、精神の深みは増してくる。

淮南子」は、生きる者に生きる糧を与えるのは、永遠に生き残るという。

自分が受け継いだ精神を言葉ではなく、行動や姿勢で示したとき、そしてそれを次世代が映像として記憶したとき、精神は初めて受け継ぎの機会を得る。

そこでは、言葉で表現する以上の影響力を精神は持っている。

大災害でなくても、生死の別れはやってくる。

そのときになって自分は何を遺せるか慌てるより、日頃から、いつ死んでも悔いのない生き方を示すのが、次世代へ伝える精神の磨き方といえるのかもしれない。