TaoChat@942編集後記

前回は、旅行に出かけていてお休みしました。

那須藤城清治美術館にいくのが目的でした。

影絵で有名ですが、デッサンも展示してあって、是非お奨めします。

光と影の作品は、幻想の世界に導きます。

陳舜臣さんの西遊記の挿絵にも藤城清治さんの影絵が使われていて、その作品にも出会えます。

今回は、文庫本「月山」(文春文庫)の中から言葉を選びました。

月山は死の山、鳥海山は生の山として言われているようです。

出羽三山には数年前に行きました。

神聖な山という印象が強いです。

「初真桑」という短い小説からの言葉です。

方言で語られる小説なので、主人公と一緒に現地を訪れているような気分なります。

死と生に対する感覚が混在し、融合し、現地の方言で語られる土着信仰のような死生観が、なぜか普遍性を伴って、心に沁み込んでくる体験を味わいました。

観念的な死生観ではなく、地域の気候、地形、慣習というような風土と溶け合った死生観で、それが日本人の原点に根ざしているような感覚で味わえるのです。

森敦さんの骨頂のような小説でした。

言葉を味わうプロセスを進めると、死と言うのは頭で描いた死であることに気づきます。

つまり、生あっての死、生きているうちに味わえる死といってもよいかもしれません。

昔の人は、生きることで精一杯だったので、宗教を通じて、更には仏教を通じて、死生観、西方浄土を見る事ができたようです。

宇治平等院を建立した貴族から、月山を土着信仰する東北人に至るまで、死後の世界をイメージしつつ、今をどう生きるべきかを考えていたように思えてきます。

「生が眠るとき、死も眠る。」という言葉は重い言葉に響きました。

生きているときに見る死こそが本当の死であるように思えたからです。

私にとっての死は、観念的、生物的な死ではなく、生を支える死であるからです。死んだ後の世界を夢見て、いまどう生きるかを模索するという積極的な生き方です。

それを捨てたとき、生は眠り、死も眠る。

そんなことをおぼろげに感じ、今回の言葉を味わった次第です。