TaoChat@1082編集後記

今日は空がどんより曇り、雨がいつ降ってもおかしくない天気である。湿度が高く蒸し暑く、エアコンを除湿にしてブログを書いている。この一週間の出来事は、コロナ感染者が5000人を超えたのが印象的である。五輪中に感染者が増えるのは予想がついたが、病床がひっ迫するのは心配なことである。自宅療養中になくなる30-50代の方が増えているのはさらに心配している。五輪関係者の感染も後を絶たない。五輪に参加した選手の活躍も続いている。アーチェリー、フェンシング、空手、スポーツクライミングスケートボード、サーフィンなど、普段余り眼にしない競技を観戦できたのはよかった。メダルを取りそこなった選手も、五輪が開催されて参加できたことに感謝の言葉を忘れなかった。無観客開催でも、まったく問題なくスポーツ精神を発揮できることを示した。ここまで書いてきたとき、外は雨が降り始めた。少し涼しくなってくれるとありがたい。

今回の言葉は芭蕉の句を選んだ。セミの声は今が盛りだが、セミの一生に目を向けると、それは感動の一生である。芭蕉もその感動を句にした。公園の木の幹はセミの抜け殻で一杯である。一生の大半を地中で過ごし、最後の数週間を地上で過ごす。ZOOM会で話をするために、セミのことを色々調べたとき、古代中国では玉蝉(ぎょくせん)というヒスイ製のセミを死者の口に含ませたことを知った。地中は死、地上に出ることは再生を意味するそうで、セミは再生のシンボルだそうである。日本人は、セミに感傷を乗せる。暑い盛り、あんな大きな声で鳴いている姿に感動する。それも死の間際で。そこから芭蕉が受けた印象は、死の間際まで力の限り生き抜く姿であった。道端に転がるセミの死骸を見ると、ほんとうにお疲れ様でしたと声をかけたくなる。芭蕉セミの死骸を見て、生前の声を心の耳で聞いているように感じたのではないでしょうか。