TaoChat@1146編集後記

今日は空も晴れ上がり、行楽日和だそうだ。どこの行楽地も人で一杯になっていることでしょう。自分はへそまがりかもしれないが、混雑する行楽地には出かけたくない。それよりも日常の近場の景色の移り変わりを楽しむほうが性に合っている。市民公園の木の葉も多少色づいてきた。それだけでも秋の深まりを感じる。今日はネスパ茅ケ崎まで、市立図書館に予約していた図書を受け取りにいく。前から読みたかった、矢作俊彦氏の「ららら科学の子」である。すでに絶版となった本だ。

この一週間の出来事は、日本シリーズのTV観戦である。第5戦まで進んだが、勢いはオリックスにある。ヤクルトファンとしては、奮起してもらいたい。第3戦はもらいものと考えると、オリックス投手力にヤクルトの打者が翻弄されているように思う。投手力オリックスが上手である。これまで、ヤクルトの打撃が少ないチャンスでかろうじて勝ってきたが、オリックスの打撃力も吉田選手が復調し、息を吹き返している。心配はヤクルトの投手力である。とにかく四球で塁を埋め、自滅するパターンが目に付く。今日の第6戦は天王山である。政治のほうは、明日は茅ケ崎市長選挙であるが、国政は、旧統一教会問題でばたばたしていて、山上容疑者がこの問題に一石を投じた感がある。非常に情けないのは、大事件が起こらないと変わらない政治家の姿勢である。まったく自浄力が欠如した集団である。

今回の言葉は、尾崎放哉の句を選んだ。五七五調ではないが、言葉の力でぐっと胸に迫るものがある。「風の中走り来て手の中のあつい銭」 子供の頃を思い出す。お金を握って何を買いに来たのか? 木枯らしの中を走って駄菓子屋に行き、お金を出すとあったかいお金だねと店のおばあさんが声をかける。一生懸命走ったので、握ったお金は熱くなる。放哉さんの子供を見る眼がうかがわれる。「言ふ事があまり多くてだまって居る」 これはひとり暮らしならでは情景である。あまりにも言う事が多くて、何を先に話してよいかわからない。でも所詮一人暮らしだから、ひとりごとで誰も聞いてくれない。だからだまっている。でもその理由は、言う事が多すぎるということにする。だって聞く人はいずれ現われるから。哀しさが漂うが、孤独に耐える強さも感じる。今回の句は、流れるを詠った句である。部屋で香りを楽しむため線香をたくが、線香の煙も部屋を漂い、知らず消える。以前、鳩居堂の龍賓香を部屋で炊いたとき、煙が濃く、部屋の中をいつまでも漂い、窓のすきまから外に流れていったのを眺めた事があった。それと同じ経験を放哉さんもされたのかと親近感を持った。句のすばらしいのは、障子の穴である。そこに吸い込まれていく煙でないと句は生まれない。アルミサッシの窓では、趣きがない。障子の穴という、張替えのための金もない、貧しさの中での発見である。メルマガの読者には、そこのところを味わっていただきたいものです。