腕時計型携帯電話

通話可能な腕時計型携帯電話が欲しいとブログに書いたが、既に複数商品化され販売されていることを知った。

ひとつは、キッズケータイのmamorio watchである。デザインは子供向けだが、腕にはめたまま通話ができる。

デザインを大人向けにして、高齢者に持たせれば、どこにいても位置情報を入手でき、電話もすぐできる。メールも打てるから、高齢者が孤独に陥ることも減る。

auでサービスをやっているとのこと。

二つ目は、韓国サムスン電子が4年前に既に販売していた。「ギャラクシーギア」という。通話相手の声ははっきり聞こえるが、こちらの声は拾わないので、声が大きくなり照れくさいと紹介記事に書いてあった。今はやっていないところを見ると売れていないようだ。当時の価格で36万ウォン(約3万3000円)とあるから、技術進化を考えれば、1万ちょっとで売り出されてもよいはずである。カメラもベルト部についている。

bluetoothのマイクつきイヤフォンをつければ通話は問題なくできる。

売れていない理由は、通話の機会が少ないのと、腕時計が邪魔ということなのかもしれない。年寄りになるとスマホが邪魔で腕時計は邪魔でない。

三つ目は国産の『ARES EC309』である。2014年に予約受付をしている。いまAMAZONで16000円で売っている。スマホを完全に腕時計化しており、カメラからメールから通話、FMラジオもついているものすごい代物である。

これがこんな値段でいいのといった感じだが、売れていないようだ。

機能的に盛り込みすぎで、カメラ機能などいらない。

要は、メールとか通話が行えればよい。鍵は入力方法である。送られたメールの内容はディスプレイで確認できるが、返しのメールの入力を音声認識で文字に変換する必要がある。腕時計の入力画面も小さくなるので、仮想キーをどのように空間に表示するかが問題になる。そこらへんが技術課題となる。

スマホはどこかに置き忘れるが、腕時計は腕についてくる。

今は、こどものmamorio watchで重宝されているが、これから再度ヒットする商品が、腕時計型携帯電話から出てくると自分的には信じている。AI技術もそこには生かされるはずで、普段使っている定型文は学習機能で音声からすぐにテキスト変換されるはずである。どこに句読点を打つか学習できるはず。音声的に文の最後に「まる」といえば、句点として認識できるようになる。

ということで、腕時計型携帯電話はすでに技術的には実現しており、そこにどのような機能を盛り込み、どのような機能を切り捨てるかが、今後の商品化の鍵になる。

いま、スマホと連動する腕時計は、スマホの飾りでしかない。

これからの腕時計型携帯電話はスマホを必要としない独立した端末となる。

 

 

こどもが始めに覚える言葉

親に抱かれた赤ちゃんが始めに覚える言葉。

バー、マーと親があやす言葉だろう。

次に、2語になると、パパー、ママーというように同じ語を2つ重ねる言葉。

次にどういう言葉を覚えるか?

駅でそれを考えさせる場面に出会った。

母親が乳母車を押して、男の赤ちゃんを乗せて急いでいる。

男の赤ちゃんは泣いてわめいている。

そのときの言葉。

「やだー」という言葉。

いいか悪いか答える基本の言葉。

英語なら、YAHかNOだろう。

大人の行動を否定する言葉。

自分の意志をもって否定する言葉。

丁寧にいえば、「いやだー」だが、いを略して「やだー」となる。

否定の言葉は、できるだけ短い方がよい。

短さは、意志の強さを表わす。

「やだー」を最初にいう子は大人になって逞しくなる。

大人の世界では、まず結論からいうことで話は始まる。

「やだー」の次に、その理由がくる。

結論を先に言うのは勇気が要る。

でも言われた方は納得がいく。

長々とお説教が続き、最後に結論がくると、何のために長々と聞いていたのかわからなくなる。結論を聞けば、理由の説明で、結論がくつかえるか考える事ができる。

それだけ聞き手に猶予を与えることになる。

「やだー」を最初にいう子は、大人になる入り口にすでに立っているといえる。

親であっても、YESかNOか、結論を先に言うと、「なぜ」を理由を聞いてくれる。

話はそこから始まり、理由の説明で自分の考えを話す機会を得る。

とすると、親の教育は「やだー」を聞いた親が次に応じるかにかかってくる。

「だめー」と返すのではなく、「どうして?」と聞いて子供の考えを聞く。

駅の母親はなんていったかは聞き漏らしました。

格安スマホ生活

格安スマホにかえて、一年ちょっと経つ。

格安スマホのプロバイダーは楽天モバイル

楽天モバイルにしてから、イオンモバイルの方が割安であると気づいたが手遅れ。

かみさんはSURFACEを使っていて、そのSIMはイオンモバイルにした。

データ量あたりの料金が安く、途中で解約しても違約金をとられない。

SURFACEを買ったとき、Yモバイルと契約して、ルータ込みの契約をしたばっかりに、いまだにYモバイルにルータの料金を払い続け、中途解約金も払った。

しかし、その額をすべて考えても、1000円足らずで4GB/月が使える。

スマホは、ZTE blade e-1で1万ちょっとの代物だが、意外に重宝している。

月2GB+音声のSIMで楽天モバイルと契約している。

ゲームは数独だけで、通信データは、もっぱら、SPOTIFYでボサノバやJAZZを聞くのに使っている。データは1.5GBくらいで、翌月に0.5GBを繰り越せる。

家では、朝日ネットで光ネットに入っているので、無線ルータを使って、家でのWifiスマホはネット接続している。アプリの更新は家で行っている。

最近、2台目のスマホを買った。こちらは、SIMなしで家で使っている。ZTE blade e-1は1日で電池がなくなり、充電中に2台目のスマホを使っている。

中華スマホがはやっており、ZTE blade e-1も中華スマホ。2台目は、VAIO Aで国産と思ったら、台湾で生産しているらしい。このVAIO Aは2万弱でNTT-Xで買った。

VAIO Aは、メモリーが少ないようだが、ZTE blade e-1を使いこなしている自分には左程問題はない。

フレームがアルミ仕様でがっちりしているのがよい。電池の持ちもZTE blade e-1より多少いい。ZTE blade e-1が潰れたら、VAIO Aが代わりになる予定。

スマホの恩恵は、SPOTIFYである。音楽をいくら聞いても無料というところがいい。

複数端末にアプリをDLして、家や会社や通勤途上で、駅のホームで、好きなところで聞ける。音質も悪くない。よくこれで商売が成り立つと思う。広告なしのプレミアムもあるようだが、広告を聞いても、無料は老人にとって有意義な年金のようなものだ。

格安スマホのいいところは、SIMフリーの好きなスマホが買えて、一番安いプロバイダーと契約できるところである。契約に縛りがあるのが一番いけない。端末と抱き合わせて、いかにも安く見せるところがいかがわしい。

イオンモバイルのいいところは、サービスの質がきめ細かなところと、実店舗を持っているので、問題があればそこにいけばいい。

根が年寄りなので、無線より光ファイバーの方が安定してると思い込んでいる。

無線は傍受可能なので、まだ信頼していない。

それでもスマホは、モバイルで音楽が聞けるので、手放せない。

音声の電話は、腕時計の形状に収め、腕時計で音声通話を、スマホでデータ通信ができればそれですべてうまく行く。今、スマホで音声電話を使う機会がどれだけあるというか。固定電話がなくなっても、NTTはファイバーで食っていける。ファイバーを通じて、ネット電話や、ビデオやTVなどの大容量通信が可能だからである。

腕時計電話が早く出てこないか待っている。

腕時計にSUICAもつければ、定期も時計をかざせばよい。

スマホを改札のリーダーに近づけるより、よっぽど気楽に行える。

腕時計はスマホbluetooth通信を行ってデータをやり取りし、表示素子も機能を備えていればよい。

大事なのは、スマホを切っても単独で腕時計が電話機能が果たせることである。

G-SHOCKが作れるなら、G-PHONEも作れるはず。

TaoChat@885編集後記

衆院選挙が終わり、安倍一強に落ち着いた。

一番危惧していた結果になったが、安倍さんの絶妙のタイミングで衆院解散を行い、野党の足元をすくった感じである。

一強になったことで、思うように政治を動かせる環境が整った。

これからは何が起ころうと国民は文句は言えなくなることを覚悟しなくてはならない。

今回のTaoChatは、季節柄の話題に終始した。

ハロウィンといえば、仮装行列と思っている人も大いに違いない。

ハロウィンを知ったのは、今から30年ほど前、アメリカ西海岸に駐在していたときである。道路わきにでかいカボチャが転がっていて、それを使ってジャック・オー・ランタンを作って飾る習慣を知ったときである。子供は袋をもって玄関先でTrick or Treatをさけび、お菓子を家人からもらう。

そんな風習がいつから日本に入ったのか定かではない。

お祭り好きの日本人だから、きつかけがあれば、仮装行列は大歓迎なのだろう。

日本のハロウィン光景は確か蕪村にもあったはずと思い、「蕪村句集」で狐火を検索した。ヒットしたのがこの句。

かぼちゃの灯篭よりもっと迫力のある髑髏の灯篭である。

それも玄関に飾るのではなく、野原におぼろげに光る灯篭である。

かぼちゃに比べれば、怖さ100倍である。

西欧では、ひとは死ぬと悪霊に変わると思われており、毛嫌いされる。

マイケルジャクソンの「スリラー」はゾンビ化した悪霊が追いかけてくる。

しかし、蕪村の髑髏は道しるべとなって、死人の霊は、旅人の旅を助けてくれる。

死人の霊は、我々生きている人間を見守ってくれる。

ハロウィンは、日本で言えば、夏のお盆である。

お盆のときに玄関に飾る精霊馬は、先祖の霊が乗る馬である。

死人の霊は、やさしい霊である。

霊と語り合えるひと時を日本人は大事にする。

蕪村の髑髏は、旅の途中で亡くなった人の霊を象徴する。

霊の存在を遠くから感知するために、狐火が必要になる。

狐火は鬼火ともいう。

鬼火は、死人の魂が燃えて空中を漂う火の玉である。

鬼火によって、遠くから道しるべの存在を知る事ができる。

単なる頭蓋骨では、見失うおそれがある。

蕪村の句はうまく情景を作っている。

鬼火に誘われた旅人が、髑髏を発見して、死者の霊の助けに感謝する。

風雨に吹き曝されても、毎晩灯台のように、道しるべのともし火を放ち続ける。

人は死んでもひとの役にたち続ける。

蕪村の句は、日本版ハロウィンの真髄を語っているように思う。

 

 

車社会の行く末その7

今回は最後の「④ 安全に行ける。」を考えてみたい。

最近の道路上の事件は、安全に行けない道路環境を露呈している。

銃社会のアメリカで聞かれる言葉。「銃が悪いのではない。銃を使う人間が悪いのだ」この言葉をそのまま、車に置き換えられる。「車が悪いのではない。車を運転する人間が悪いのだ」

割り込み車に対する執拗なあおり運転。これを「ロード・レイジ」というそうだ。

道路上での怒り爆発という意味だろう。

割り込んだ車は悪気はないかもしれないが、割り込まれた方は危険運転と感じる。

相手が危険運転をするなら、こちらも危険運転でお返しくらいの意味なのだろう。

イスラム世界では、「目には目を歯には歯を」という。

一言で言えば、割り込んだほうもエチケットに欠ける。

車では、道をゆずってくれた車にライトでお礼を表現することはできる。

しかし、相手の車に謝りたいときに表現するツールがない。

これを、頭をぺこりと下げるLED表示を相手に送れば、許してもらえる場合もある。

やっちまったと思ったら、即謝りの意思表示ができるとありがたい。

「安全に行ける」とは、前後の車とある程度車間距離を保ちながら、運転できることである。車間距離をとりすぎると割り込まれるし、短すぎると、あおり運転に思われ、前の車にプレッシャを与える。

従って、自分の車は、「何メートル」の車間距離で運転しているから割り込まないで欲しいと、周りの車にメッセージを送るようにできれば、ある程度安全は保たれる。営業車には、法廷速度運転していますという表示をしている車がある。あれを見ると、遅くてもお仕事ご苦労様と思えてくる。

同じ心境を、相手に与える事ができたら、切れるドライバーも少し気分が収まるかもしれない。

自動的にやるなら、ドライブレコーダー配備を法令化し、異常運転をデータにして記録し、異常運転車に刑罰と罰金を科すようにしてもよい。

異常運転車を見かけたら、映像とともに警察のサーバーに自動通報してもよい。

大概そういう車は常習犯で、事故を起こすまで、ロード・レイジを続ける。

最近多いのは、高齢ドライバーの事故。ブレーキとアクセルの踏み違い。認知機能低下で、高速道路の逆走、安全不確認など。

プリウスを運転し、一旦停止をせずに左右確認せずに突然発進する。エンジン音がないから、四つ角でプリウスのフロントが音なしに突然現れるので、側面衝突となる。こちらがいくら注意しても、側面から当てられるので逃げようがない。

高齢ドライバーは青の点滅でもいいから、遠くから確認できるとありがたい。

近くを通るとき、格別の注意で応じられる。

これを差別と呼ぶかは別にして、危険予知を前もって行う事ができる。

「安全に行ける」とは、どの車が危ないか、前もって知ることである。君子危うきに近寄らず。 危ない車はやり過ごすか、近づかないことである。それを画像認識やブラックリスト車の把握で手助けすることはできる。

危ない車には割り込まないことも事前に判断できる。

アメリカでは、幼児いたずら再犯にはRFIDを持たせて、常時存在位置を把握して、近くに幼児を近寄らせないようにしている。

車につけるかドライバーにつけるかは別にして、危険行動を監視することもいずれ必要になる。

これで、一応車社会の行く方を終えることにする。

長い間、ご清聴ありがとうございます。

 

TaoChat@884編集後記

台風が来るというので投票は早めに済ませたほうがよさそうだ。

月曜は東京でひとに会う約束があるので、都内のビジネスホテルを予約した。

今日の言葉は荀子である。

選挙に丁度よい言葉が見つかった。

民主主義の基本のような言葉である。

舟を政治家、水を国民にたとえた言葉である。

水の流れが、舟の行く先を決める。

水がしっかり流れを操らないと、舟はどこにいくかわからない。

舟はときとして水に支えられていることを忘れる。

自分の力で、舟になったと勘違いする。

選挙のときは、1票を稼ぐために、はいつくばって遊説する。

それがいったん議員となると、4167万の年収をもらい、新幹線のグリーン車も乗り放題でふんぞりかえる。 国民にとって重要なのは、当選して何をしたかを継続的に公開することである。これをするあれをすると公約に掲げても、それをどの程度実行できたか、評価する政治家は殆どいない。

これだけネットが発達しているのだから、自己評価と第3者評価を同時に自分のブログにのせる政治家がいてもおかしくない。

会社の人間は、会社に評価されて給料が決まる。国会議員がなぜ国民の評価を受けて給料が決まらないのか? 選挙だけが国民の評価と勘違いしている。

政治家に対するミシュラン評価を国民がやれば、国民の目はもっと厳しくなる。

投票前に受けのいい言葉を吐いても、任期中に何をやったか国民に開示されれば、今までいい加減にやってきた政治家は皆落選する。

文春ではないが、不倫してても、政治家としてしっかり仕事を果たしていれば問題はない。週刊誌はゲスの極み。売れれば何でもやる商売である。

週刊誌を読むくらいなら、論語や、孟子や、荘子老子韓非子荀子と中国の古代思想を読んだ方がよっぽどためになる。

中国の歴史が生み出したものは限りなく大きいが、その中国が独裁を目指す習近平に牛耳られているのは、いまだに生み出したものに学んでいない感が強い。

三国志ならまだバランスがとれるが、共産党一強はなすすべがない。

民主主義のよいところは、何でも自由にものが言え、自由な意見から、国の方向付けができるところにある。国会議員がみな同じ考えになったり、違う意見を押さえつけるようになったら、政治は腐敗し始める。

それを許すのは国民の罪であるのは、ナチスが証明している。

愚かなトランプ大統領を選んだのは、アメリカの民主主義で、その暴走を許さないのもまたアメリカの民主主義。 

アメリカと中国の違いは、独裁を許すか許さないかの違いになる。

独裁に移行して国家統制をしくかは国民の判断だが、一度許すと、次は独裁者の粛清が恐くなり、彼の暴走に歯止めが利かなくなる。

水は、老子では道の根幹だが、荀子では民主主義の根幹になる。

舟とともに国がどこに流れ着くかは水が決める。

 

本屋の大切さ

本の読者が減っているとは言え、本を読みたくなる。

カズオ・イシグロ氏も、NHK文学白熱教室の中で言っていたが、小説を読むことで、フィクションの世界で真実を知る事ができる。真実とは何か? それはストーリーの中で登場人物がどう感じたか、追体験でき、それと自分の置かれた立場を振り返る機会を与えるのが小説の世界である。

そういう本にめぐり合えるのが、本屋である。

本屋はリアル本屋(店舗のある本屋)でもネット本屋でもいいが。

リアル本屋のほうが、コンテンツだけでなく本自体の装丁だったり、古い本なのか新しい本なのか、じかに知る事ができる。

悲しいかな、最近の本屋は、しばらく売れないと返品して、次回行くときに見当たらない場合が多い。コンビニの展示と同じになっている。

リアルな本屋がなくなり、アマゾンのようなネット本屋だけになったら、きっとさみしくなる。 リアルな本屋は、売れ筋本だったり、最新刊だったり、いろんなジャンルの本にめぐり合える機会が多い。

ネットだとまずお奨め本の検索から始まり、安値の店を探すことになる。

リアルな本屋の場合、即断即決となり、買ったら即読むことになる。

次に行った時、返品されている可能性が高いからである。

電車にのって通勤しているが、本を読んでいる人は非常に少ない。

スマホで漫画を見ている人は結構いる。ゲームには及ばないが。

本を読む習慣は子供の頃に身につく。

わたしも子供の頃、本を読んでもらい、小学校のときは漫画三昧、中学後半の恋愛期に入って、「友情」や「風立ちぬ」や芥川龍之介を読み始め、高校で、耽美派を読んだ。生まれが東京下町だったので、谷崎や荷風の作品、「濹東綺譚」「つゆのあとさき」「かめ笹」「地獄の花」など、下町が舞台のものを読んだ、ませた高校生だった。

当時世田谷から高田馬場まで通学していたので、本を読む時間に恵まれていた。

大学に入ると生協の書籍部で本を漁っていた。新宿の紀伊国屋三省堂にもお世話になった。どんな本を読んでいたか手元に残している本を見ると、思想書や哲学書が多く、小説は殆ど読んでいない。諸子百家の本や福永さんや貝塚さんの道家儒家の本が手元に残り、今書いているメルマガの原稿のねた本にしている。

会社に入ると、鵠沼海岸に住んでいたので、藤沢の有隣堂や西武のリブロまで自転車で通っていた。 本屋は、自分の社会の出来事との接点のようなものだった。ケイタイもネットもなく、本が知識の宝庫だった。

海が近かったので、潮風に吹かれ寝転んで本を読むのが楽しみだった。

その後、住居が湘南ライフタウンに変わると、本屋との接点がなくなった。

近くに本屋はなく、車通勤していたので、本を買う機会がなかった。

思い出すと、出張や飲み会の合間に、本屋にぶらっと入って新刊本をたまに買う程度だった。読書の機会が増えたのは、子供が大学に入り家を離れたころからのように思う。

茅ケ崎に移ってから、本屋が近所に2件、駅前に3件あるので、行く場所に困らない。

店舗が狭いので、ない本は横浜に買いにいったこともある。

ネット書店も勢いを増し、ネットで購入することもあった。

当時は、どの書店のどこにどういうジャンルの本が並んでいるか把握していた。

従って、本棚に新たに並ぶ本に出会うのが楽しみだった。

東京の丸善八重洲ブックセンタに行くと、本の数が多すぎて、逆に迷って何も買わずに帰ることもあった。ネット書店の素晴らしさは、ピンポイントで買えることができ、古書も買える点にある。買う本が決まっていれば、一番安く買える。

リアル書店は、何を買うかは、その場で決めるという楽しみがある。

本屋に期待したいのは、売れない本もすぐに返品せずに、しばらく置いて欲しいことである。立ち読みして買う場合、次にいくともうないのでは困る。

棚の入れ替えを頻繁にやると、記憶をたどって本にたどりつくことさえできない。

店の経営も大変でしょうが、返品予定の本に返品日を掲示してもらうと、その場で買う場合もあるので、ぜひお願いします。

しかし、返品予定の本が、ノーベル賞受賞とともに売れ出すケースもあるので難しいかも。