車社会の行く末その6

今回は、③ 環境を損なわない、について述べたい。

環境を損なわない車って何だろうか?

今茅ケ崎に住んでいるが、土日になると一国が渋滞する。

車は止まっていると排気ガスを出し続ける。

止まっているだけで環境を汚染する。

最近は、アイドリングストップの車が増えてきて、排気ガスを出さない配慮が少しずつされている。大型バスもアイドリングストップする。

環境をそこなわない車の筆頭は、なんといってもソラー・カーだろう。ソラー・カーは太陽電池で充電した電力で駆動したモータで動くので、環境に全くやさしい。欠点は、暗いところで使えないので、夜やトンネル内では使えない。そのために、リチウム電池で走る電気自動車が次に来る。こちらは充電時間がネックとなる。走行距離の問題は、充電ステーションが完備されれば実用上障壁にならなくなっている。もうひとつのアプローチは、トロリーバスみたいに電線のように電気を外部から補給して、モーターを駆動する方法がある。これを無線で補給できれば、電池の電気を使わずに走る事ができる。

しかし、環境を損なわない車は、CO2排出だけの問題ではない。

交通環境を損なわない車にすべき社会がきっとやってくる。交通環境とは、例えば、歩道を歩行者が歩いているのに、つっこんでくる車がいるような状況を排除する車である。人間が運転していると、人間の判断ですべてが決まる。

歩行者に気づかなかったり、気づいていても無視したりすることがある。

従って、信号が赤に変わろうとするとき、自動的に強制的に停止させる車を提供することである。トラックでもタクシーでも、必ず停止させる。人間の判断に任せるから、無理に信号を無視して突っ込んでくる。

強制停止させれば、何も問題は起こらない。

あるいは、信号に監視カメラを備えておき、信号無視車を検知することもできる。

車には、ETCに無線タグがついている。車のIDを自動検知して、信号が赤のときに通過する車を自動検知して、常習車を特定して取りしまる。

自動運転車になると、車にいろんなセンサーをつけて、道路情報を判断しながら運転しなくてはならなくなるので、このような自動検知が可能になる。

車は、運転手の判断に任せるのではなく、システムの中で走行する車になる。

勝手な判断で運転する車は、自動的に排除される。

電気自動車は、CPUで動く車になるので、自動運転との整合性がよい。充電ステーションの案内、予想される充電時間も、運転中にスケジューリングされる。

特に、都市交通になると、自動運転車レーンと手動運転者レーンとレーン分けが進むと予想される。自動運転車レーンには、無線送電システムが道路の下に配備され、走行中にも充電され、充電頻度も減ってくる。追突事故や正面衝突も少なくなるので、保険料も安くなり、車社会自体が、電気自動車への移行が加速される。

環境を損なわない車は、「④ 安全に行ける。」という条件も満たすことになる。

環境を損なわないから、安全に行けるのである。

環境をそこなわないように、周りの環境に順応しながら、無理なルートを選ばず、無理なスピードで運転せず、無理なハンドル操作をしないので、安全にいけることになる。

次回は、「④ 安全に行ける。」をもう少し突っ込んで考えたい。

 

 

TaoChat@883編集後記

昨夜は職場の飲み会の幹事をやり、深夜遅くの帰宅で風呂も入らず寝てしまった。

今朝は二日酔いで、メルマガの執筆もままならず、お昼近くの発行となった。

それにまぐまぐの方の号数を間違える始末。

論語の言葉を拾った。

ぜいたくと倹約の話から、借金の話になり、消費減税の話で終わった。

ぜいたくは尊大で、倹約は頑固。

尊大になるくらいなら、まだ倹約のほうが救われる。

倹約が目的化するとけちで頑固になるが、倹約の目的が将来の投資の資金作りなら話は健全になる。高齢者の倹約は、そもそも支給される年金の範囲内でやりくりしなけりゃならない事情からくる。消費税の増税は、高齢者の家計にもインパクトがあるが、その金を年金や医療費から生じた国の借金の返済にあてるなら仕方ないかと思えてくる。

それを子供支援に使うとなると、話は変わる。いままでの借金をそのままにして、子供支援に使うと、子供に結局将来の借金を背負わせることになる。

借金をするというのは、ぜいたくの一種と考える。

今、金がないなら我慢するだけのことである。

アメリカの奨学金問題は、そもそも行けなかった大学に借金をして大学に行くことから生じている。リーマンが破産したサブプライム問題も、貧乏人に無審査でどんどん借金させて、住宅バブルを起こし、返済不能になった高額の担保物件を転売して金を生む仕掛けを狙ったもの。

貧乏人にぜいたくさせて、どん底に落とす結果になった。

国のレベルで借金をすることは、責任者なき借金でいきつくとこまで行く。

それをとめるのは、国民なのである。

13本の毒矢

ジェフリー・アーチャーの「13本の毒矢」を読み始めた。

アマゾン古書で求めた平成4年発行のもので、紙が茶色に変色している。

ページを開けると、プーんと鼻の先にかび臭い匂いが漂う。

電子書籍では味わえない、古書を読むというリアルな実感がある。

「ワンナイトスタンド」が面白い。

幼馴染が同じように大学を出て、同じように結婚して、同じような家庭を持ち、ニューヨークで同じ女に出会い、同じように恋に落ちる。

どちらが先に彼女を落とせるか競う。

短編ですが、次々にストーリーが展開していく。

落語のように、落ちもちゃんとある。

アーチャーは短編の天才かもしれない。

そのまえの、「昼食」も面白かった。

主人公の成功を願いつつ、ひやひやしながら、主人公の綱渡りをそばで味わう。

主人公の予想が次々と裏切られるところが、アーチャーの腕の見せ所。

これも落語と同じく落ちがすごい。

アーチャーは自分の経験を、さらにひねりを加えて、書いているようだ。

彼の人生が、政治家であり、偽証罪で服役した過去もあり、大きな波に飲み込まれながら、その苦い経験を「プリズンストーリー」として、また小説にしてしまう。彼の不屈のしぶとさとウィットとユーモアに、英国人の底力を感じる。

 

 

衆議院選挙のゆくえ

衆議院選挙の公示の前に、各党が公約を発表した。

大義のない衆議院解散で、どの党を選べばよいか、選択に困っている有権者が多いと思われる。

自民党公明党は、過半数を占めて、思うように法案を通したいと考える。

有権者としては、思うように国会運営を操られて、国を変な方向に導かれることを恐れる。

憲法改正も何をどう変えるか、明らかにしない。

明らかにすると、選挙戦でそこを衝かれるからぼやかす。

消費税増税赤字国債を先送りして、教育無償化の財源にあてる。

教育費を無償化にするより、何に課税するかをもう少し丁寧に検討して欲しい。

書籍や新聞など、子どもの知育育成に貢献する物品・サービスの無税化を進めたほうがわかりやすい。

希望の党は、企業の内部留保に課税する公約をあげている。

安倍総理は企業に甘い。消費が増えないのは、賃金が上らないので、企業に賃金アップをお願いしているだけ。企業はそれに耳を貸さずに、内部に溜め込むだけ。安倍さんの言葉は現状では無視され、日銀は赤字国債を買い続け、市中に金をばら撒いている。

お金をばら撒いても、消費者のふところには入らず、購買力に活気はない。

従って、企業の内部留保に課税しようとする案に賛成したい。競争力ダウンにつながると経営者は言うが、競争力アップのために投資している企業が何社あるというのか。

アベノミクスが破綻しているのは目に見えているが、追加策に窮している。

原発依存は、自民党公明党お家芸であるが、もうすこし真剣に新エネルギーへのチャレンジ企業に思い切った投資をしてもよいのでないかと思う。

既存企業への執着が与党は強すぎる。既存企業が与党の支援団体になっているので、利益誘導型の政治をしているとみられても仕方がない。

一方、野党は、公約に何を掲げているのかというと、消費税増反対、原発反対、憲法改正反対と大衆迎合型の戦法を続けている。

与党も野党も、何をどうするためにどういう準備をするのか、具体的な案を提示しない。財源がなければ何もできないのは当たり前。

しかし、企業には金が溢れて内部留保にとどこおり、一方超高齢化社会になり介護医療福祉に金がかかる今となっては、財源は、新税導入でまかなうほかはないと思う。

一番やっちゃいけない策は、使用目的のわからない税の徴収である。

消費税増税は、あくまでも国の借金を減らすために目的を限定してほしい。

官僚のやりそうなところが、税金の流用である。

与党野党とも、日本にとってリスクは何で、それを回避するために新税をどのような目的でどう定めるかを、選挙のときに提示して欲しい。

玉虫色の公約では、有権者は踊らない。

この選挙で大事にしたいのは、与党の暴走を許さないことと、公約実行時の有権者の痛みと、有権者が得る利益(有形無形を問わず)をはっきりと掲げる党や候補に投票することである。

 

 

 

 

 

 

TaoChat@882編集後記

昨夜は大分寒くてダウンを羽織った。

今週一週間は、ノーベル賞の発表が月曜から続き、文学賞では、カズオ・イシグロ氏が受賞された。カズオ・イシグロ氏を知ったのは、「私を離さないで」のドラマだった。なかなか面白く、小説でも読みたいと思って、書店に何回か足を運んだが、そのままになってしまった。英語で書かれたので、原文で読みたいと思ったのか、理由はわからない。村上春樹さんの受賞は先延ばしになっているようだ。残念だが、氏には引き続き、面白い作品を出してほしい。ノーベル賞は過去の業績に対し与えるもので、受賞者はその後作品を出さなくなる傾向にある。

村上さんの凄いところは、これからもよい作品を出し続けるポテンシャルをもった方だというところである。ノーベル賞は誰が推薦人になるか、どの地域で執筆するか、年齢はどうか(受賞前に死んでしまうことを考慮)とか、いろんな要因で決まるので、作品自体というより、政治的に決まる傾向が強い。従って、勲章の要素が強い。

今回の言葉は、カズオ・イシグロ氏の言葉より、自分がノーベル文学賞に推薦したい、ポール・オースターの言葉を選んだ。

カズオ・イシグロ氏の受賞理由の言葉の中で、氏の小説が、“uncovered the abyss beneath our illusory sense of connection with the world”とする所が、ポール・オースターの小説と共通するところがあると思った。

世界とつながっていると思っている事が幻想に過ぎない。

幻想の下にある深い淵とは何か?

世界の人々とわかりあえるようでわかりあえない。

その理由が、ポール・オースターの言葉につなかるような気がする。

人間は、ひとつの自己で語れるほど単純じゃない。

複数の自己をもったひとりの人間が、時と場所によって、自己を使い分けている。

その人間同士が、変容する自己をぶつけあうのが現実の世界。

"We were always in the right place at the wrong time, the wrong place at the right time, always just missing each other, always just a few inches from figuring the whole thing out.”

--- Paul Auster, Moon Palace

「われわれは間違った時間に常に正しい場所にいて、適切な時間に常に間違った場所にいました。常に互いを見失って、全体像を見出すのにいつもあと一歩の所にいました。」

幻想の下にある深い淵を表現すると、この言葉になると思います。

今回のポール・オースターの言葉は、小説を読むたびにかみ締めたい言葉です。

TaoChat@881編集後記

日の長さも短くなり、空気も澄んできて、虫の鳴き声がもの悲しく感じられる季節になりました。秋の和歌が欲しくなる季節でもあり、いにしえの人々の気持ちをたどることにしました。

文教堂のカバーのついた岩波文庫の「古今和歌集」の離別歌をめくりました。

平安時代も江戸時代もまた現代も、見送るひとと見送られるひとの気持ちは変わりません。今回の和歌にもそんな気持ちの交換がみてとれます。

原稿を書いているうちに、芭蕉の「奥の細道」が思い出され、書き加えてしまいました。昔のひとの旅も、自発的な旅とひとから頼まれた旅があるようです。

ひとから頼まれた旅は、きっとメールなどない時代ですから、言づけを頼まれたり、ものを届けるのを頼まれたりすることもあったでしょう。そんな旅は、途中でやめたくてもできません。用事を済ませるまでは帰れません。

自発的な旅は、気分が楽でいつでも止められます。

今回の歌の詠み手の源実さんはどっちの旅だったでしょう。

ことばをそのまま受け取れば、行くのがつらいから帰ってしまおうとなりますが、そこは芭蕉的な感慨を読み取りたくなります。

そもそも大勢の見送りがあるということは、ひょっとしてもう会えないか、長い間会えないことが前提です。行くのがつらいから帰ってしまおうという気持ちは見送りの別離の念を受けた感情です。

帰りたいのはやまやまだが、自分で決めた旅なんだからという思いがある。

そう簡単に初心は曲げられないという思いがあるはず。

芭蕉は、済んでいた住居をひとに譲り、旅に出ている。

もう帰れないことを前提に江戸を出ている。

原稿も、老荘的な人生への覚悟を絡めて、綴っています。

折りしも衆院選が決まり、民進党の分裂が「ひとやりの道」で余儀なくされました。

民進党の面々がこの歌を詠んだときどのような思いになるのか、想像してみました。

政治とは、「ひとやりの道」そのもの。自分の都合で解散できるのは総理のみ。

「ひとやりの道」のなかで、どう選択して政権をとるかが政治家なら、選んだ道を曲げずに、有権者に問うのが選挙。 死出の旅になるか、希望の道に至るかは、自分しだい。選択した以上は徹底抗戦と、チェゲバラの気持ちで選挙を戦ってほしいとの思いで締めました。

TaoChat@880編集後記

今週の出来事を振り返ると、トランプ米大統領国連演説で、北朝鮮への経済制裁を断固実行する意志を明らかにし、日本では安倍首相が衆議院を解散し、選挙を行うと発表しました。仕事人内閣を発足させたのは8月頭ですから、仕事人に仕事をさせずに選挙するのは、横暴さが目に付きます。

狙いは、消費税増税憲法改正のため、国会で多数を占めるためと想像がつきます。選挙のために、どのような将来展望を語るかわかりませんが、経済優先政策より、この国をどのように再建するかの展望を語って欲しいと思います。

首相就任期間にできることは限られます。自分が選挙民の賛同を得られる期間に、どのような基礎を築くのか、長期展望を語ってもらいたい。

日本の政治家は、目先の票獲得のため、見えている問題の解決策を語って見せます。実際当選すると、党利党略の下で語った解決策など何処吹く風です。

その点で言えば、明治の政治家のほうが、この国の再建のために、心血を注いだといえます。富国強兵し、帝国主義の列強に加わるという長期展望は間違っていませんでした。そのお陰で産業は発展し、戦後の急速な回復をなし遂げられました。

今回のメルマガは、目先のことで思い悩む愚かさを反省し、もっとスケールの大きな見方で今の問題を考え直してみようという、視点で、自省録から言葉を選びました。もちろん、自省録の言葉は、個人的なレベルでの助言ですが、政治家や官僚も、もっと長期的な視野でこの国の未来を考えてほしいというのが私からのメッセージです。

ひとつの例が、アメリカのアル・ゴアです。

彼はアメリカの政治家ですが、情報スーパーハイウェイ構想を唱え、インターネット普及に貢献し、地球温暖化問題を世界的に啓発し、長期的な視野で地球の未来を考えてきました。

このような政治家が日本にいるかというとNOです。

アメリカの協力なしに何もできないというのが、日本の政治家です。

日本を改造していこうと構想を出せたのは田中角栄だけです。

核の傘を乗りこえた防衛論を提案できる政治家が何故いないのでしょうか?

国の借金を先送りして、今できることしかしない。年金負担も、将来の若者に先送りする。

これでは、国民が将来の不幸な子どもを生まないように考えるのは当たり前。

目先のことであくせくする、我々と同レベルの政治家が大半というのが、現状なようです。