車社会の行く末その7

今回は最後の「④ 安全に行ける。」を考えてみたい。

最近の道路上の事件は、安全に行けない道路環境を露呈している。

銃社会のアメリカで聞かれる言葉。「銃が悪いのではない。銃を使う人間が悪いのだ」この言葉をそのまま、車に置き換えられる。「車が悪いのではない。車を運転する人間が悪いのだ」

割り込み車に対する執拗なあおり運転。これを「ロード・レイジ」というそうだ。

道路上での怒り爆発という意味だろう。

割り込んだ車は悪気はないかもしれないが、割り込まれた方は危険運転と感じる。

相手が危険運転をするなら、こちらも危険運転でお返しくらいの意味なのだろう。

イスラム世界では、「目には目を歯には歯を」という。

一言で言えば、割り込んだほうもエチケットに欠ける。

車では、道をゆずってくれた車にライトでお礼を表現することはできる。

しかし、相手の車に謝りたいときに表現するツールがない。

これを、頭をぺこりと下げるLED表示を相手に送れば、許してもらえる場合もある。

やっちまったと思ったら、即謝りの意思表示ができるとありがたい。

「安全に行ける」とは、前後の車とある程度車間距離を保ちながら、運転できることである。車間距離をとりすぎると割り込まれるし、短すぎると、あおり運転に思われ、前の車にプレッシャを与える。

従って、自分の車は、「何メートル」の車間距離で運転しているから割り込まないで欲しいと、周りの車にメッセージを送るようにできれば、ある程度安全は保たれる。営業車には、法廷速度運転していますという表示をしている車がある。あれを見ると、遅くてもお仕事ご苦労様と思えてくる。

同じ心境を、相手に与える事ができたら、切れるドライバーも少し気分が収まるかもしれない。

自動的にやるなら、ドライブレコーダー配備を法令化し、異常運転をデータにして記録し、異常運転車に刑罰と罰金を科すようにしてもよい。

異常運転車を見かけたら、映像とともに警察のサーバーに自動通報してもよい。

大概そういう車は常習犯で、事故を起こすまで、ロード・レイジを続ける。

最近多いのは、高齢ドライバーの事故。ブレーキとアクセルの踏み違い。認知機能低下で、高速道路の逆走、安全不確認など。

プリウスを運転し、一旦停止をせずに左右確認せずに突然発進する。エンジン音がないから、四つ角でプリウスのフロントが音なしに突然現れるので、側面衝突となる。こちらがいくら注意しても、側面から当てられるので逃げようがない。

高齢ドライバーは青の点滅でもいいから、遠くから確認できるとありがたい。

近くを通るとき、格別の注意で応じられる。

これを差別と呼ぶかは別にして、危険予知を前もって行う事ができる。

「安全に行ける」とは、どの車が危ないか、前もって知ることである。君子危うきに近寄らず。 危ない車はやり過ごすか、近づかないことである。それを画像認識やブラックリスト車の把握で手助けすることはできる。

危ない車には割り込まないことも事前に判断できる。

アメリカでは、幼児いたずら再犯にはRFIDを持たせて、常時存在位置を把握して、近くに幼児を近寄らせないようにしている。

車につけるかドライバーにつけるかは別にして、危険行動を監視することもいずれ必要になる。

これで、一応車社会の行く方を終えることにする。

長い間、ご清聴ありがとうございます。

 

TaoChat@884編集後記

台風が来るというので投票は早めに済ませたほうがよさそうだ。

月曜は東京でひとに会う約束があるので、都内のビジネスホテルを予約した。

今日の言葉は荀子である。

選挙に丁度よい言葉が見つかった。

民主主義の基本のような言葉である。

舟を政治家、水を国民にたとえた言葉である。

水の流れが、舟の行く先を決める。

水がしっかり流れを操らないと、舟はどこにいくかわからない。

舟はときとして水に支えられていることを忘れる。

自分の力で、舟になったと勘違いする。

選挙のときは、1票を稼ぐために、はいつくばって遊説する。

それがいったん議員となると、4167万の年収をもらい、新幹線のグリーン車も乗り放題でふんぞりかえる。 国民にとって重要なのは、当選して何をしたかを継続的に公開することである。これをするあれをすると公約に掲げても、それをどの程度実行できたか、評価する政治家は殆どいない。

これだけネットが発達しているのだから、自己評価と第3者評価を同時に自分のブログにのせる政治家がいてもおかしくない。

会社の人間は、会社に評価されて給料が決まる。国会議員がなぜ国民の評価を受けて給料が決まらないのか? 選挙だけが国民の評価と勘違いしている。

政治家に対するミシュラン評価を国民がやれば、国民の目はもっと厳しくなる。

投票前に受けのいい言葉を吐いても、任期中に何をやったか国民に開示されれば、今までいい加減にやってきた政治家は皆落選する。

文春ではないが、不倫してても、政治家としてしっかり仕事を果たしていれば問題はない。週刊誌はゲスの極み。売れれば何でもやる商売である。

週刊誌を読むくらいなら、論語や、孟子や、荘子老子韓非子荀子と中国の古代思想を読んだ方がよっぽどためになる。

中国の歴史が生み出したものは限りなく大きいが、その中国が独裁を目指す習近平に牛耳られているのは、いまだに生み出したものに学んでいない感が強い。

三国志ならまだバランスがとれるが、共産党一強はなすすべがない。

民主主義のよいところは、何でも自由にものが言え、自由な意見から、国の方向付けができるところにある。国会議員がみな同じ考えになったり、違う意見を押さえつけるようになったら、政治は腐敗し始める。

それを許すのは国民の罪であるのは、ナチスが証明している。

愚かなトランプ大統領を選んだのは、アメリカの民主主義で、その暴走を許さないのもまたアメリカの民主主義。 

アメリカと中国の違いは、独裁を許すか許さないかの違いになる。

独裁に移行して国家統制をしくかは国民の判断だが、一度許すと、次は独裁者の粛清が恐くなり、彼の暴走に歯止めが利かなくなる。

水は、老子では道の根幹だが、荀子では民主主義の根幹になる。

舟とともに国がどこに流れ着くかは水が決める。

 

本屋の大切さ

本の読者が減っているとは言え、本を読みたくなる。

カズオ・イシグロ氏も、NHK文学白熱教室の中で言っていたが、小説を読むことで、フィクションの世界で真実を知る事ができる。真実とは何か? それはストーリーの中で登場人物がどう感じたか、追体験でき、それと自分の置かれた立場を振り返る機会を与えるのが小説の世界である。

そういう本にめぐり合えるのが、本屋である。

本屋はリアル本屋(店舗のある本屋)でもネット本屋でもいいが。

リアル本屋のほうが、コンテンツだけでなく本自体の装丁だったり、古い本なのか新しい本なのか、じかに知る事ができる。

悲しいかな、最近の本屋は、しばらく売れないと返品して、次回行くときに見当たらない場合が多い。コンビニの展示と同じになっている。

リアルな本屋がなくなり、アマゾンのようなネット本屋だけになったら、きっとさみしくなる。 リアルな本屋は、売れ筋本だったり、最新刊だったり、いろんなジャンルの本にめぐり合える機会が多い。

ネットだとまずお奨め本の検索から始まり、安値の店を探すことになる。

リアルな本屋の場合、即断即決となり、買ったら即読むことになる。

次に行った時、返品されている可能性が高いからである。

電車にのって通勤しているが、本を読んでいる人は非常に少ない。

スマホで漫画を見ている人は結構いる。ゲームには及ばないが。

本を読む習慣は子供の頃に身につく。

わたしも子供の頃、本を読んでもらい、小学校のときは漫画三昧、中学後半の恋愛期に入って、「友情」や「風立ちぬ」や芥川龍之介を読み始め、高校で、耽美派を読んだ。生まれが東京下町だったので、谷崎や荷風の作品、「濹東綺譚」「つゆのあとさき」「かめ笹」「地獄の花」など、下町が舞台のものを読んだ、ませた高校生だった。

当時世田谷から高田馬場まで通学していたので、本を読む時間に恵まれていた。

大学に入ると生協の書籍部で本を漁っていた。新宿の紀伊国屋三省堂にもお世話になった。どんな本を読んでいたか手元に残している本を見ると、思想書や哲学書が多く、小説は殆ど読んでいない。諸子百家の本や福永さんや貝塚さんの道家儒家の本が手元に残り、今書いているメルマガの原稿のねた本にしている。

会社に入ると、鵠沼海岸に住んでいたので、藤沢の有隣堂や西武のリブロまで自転車で通っていた。 本屋は、自分の社会の出来事との接点のようなものだった。ケイタイもネットもなく、本が知識の宝庫だった。

海が近かったので、潮風に吹かれ寝転んで本を読むのが楽しみだった。

その後、住居が湘南ライフタウンに変わると、本屋との接点がなくなった。

近くに本屋はなく、車通勤していたので、本を買う機会がなかった。

思い出すと、出張や飲み会の合間に、本屋にぶらっと入って新刊本をたまに買う程度だった。読書の機会が増えたのは、子供が大学に入り家を離れたころからのように思う。

茅ケ崎に移ってから、本屋が近所に2件、駅前に3件あるので、行く場所に困らない。

店舗が狭いので、ない本は横浜に買いにいったこともある。

ネット書店も勢いを増し、ネットで購入することもあった。

当時は、どの書店のどこにどういうジャンルの本が並んでいるか把握していた。

従って、本棚に新たに並ぶ本に出会うのが楽しみだった。

東京の丸善八重洲ブックセンタに行くと、本の数が多すぎて、逆に迷って何も買わずに帰ることもあった。ネット書店の素晴らしさは、ピンポイントで買えることができ、古書も買える点にある。買う本が決まっていれば、一番安く買える。

リアル書店は、何を買うかは、その場で決めるという楽しみがある。

本屋に期待したいのは、売れない本もすぐに返品せずに、しばらく置いて欲しいことである。立ち読みして買う場合、次にいくともうないのでは困る。

棚の入れ替えを頻繁にやると、記憶をたどって本にたどりつくことさえできない。

店の経営も大変でしょうが、返品予定の本に返品日を掲示してもらうと、その場で買う場合もあるので、ぜひお願いします。

しかし、返品予定の本が、ノーベル賞受賞とともに売れ出すケースもあるので難しいかも。

 

 

車社会の行く末その6

今回は、③ 環境を損なわない、について述べたい。

環境を損なわない車って何だろうか?

今茅ケ崎に住んでいるが、土日になると一国が渋滞する。

車は止まっていると排気ガスを出し続ける。

止まっているだけで環境を汚染する。

最近は、アイドリングストップの車が増えてきて、排気ガスを出さない配慮が少しずつされている。大型バスもアイドリングストップする。

環境をそこなわない車の筆頭は、なんといってもソラー・カーだろう。ソラー・カーは太陽電池で充電した電力で駆動したモータで動くので、環境に全くやさしい。欠点は、暗いところで使えないので、夜やトンネル内では使えない。そのために、リチウム電池で走る電気自動車が次に来る。こちらは充電時間がネックとなる。走行距離の問題は、充電ステーションが完備されれば実用上障壁にならなくなっている。もうひとつのアプローチは、トロリーバスみたいに電線のように電気を外部から補給して、モーターを駆動する方法がある。これを無線で補給できれば、電池の電気を使わずに走る事ができる。

しかし、環境を損なわない車は、CO2排出だけの問題ではない。

交通環境を損なわない車にすべき社会がきっとやってくる。交通環境とは、例えば、歩道を歩行者が歩いているのに、つっこんでくる車がいるような状況を排除する車である。人間が運転していると、人間の判断ですべてが決まる。

歩行者に気づかなかったり、気づいていても無視したりすることがある。

従って、信号が赤に変わろうとするとき、自動的に強制的に停止させる車を提供することである。トラックでもタクシーでも、必ず停止させる。人間の判断に任せるから、無理に信号を無視して突っ込んでくる。

強制停止させれば、何も問題は起こらない。

あるいは、信号に監視カメラを備えておき、信号無視車を検知することもできる。

車には、ETCに無線タグがついている。車のIDを自動検知して、信号が赤のときに通過する車を自動検知して、常習車を特定して取りしまる。

自動運転車になると、車にいろんなセンサーをつけて、道路情報を判断しながら運転しなくてはならなくなるので、このような自動検知が可能になる。

車は、運転手の判断に任せるのではなく、システムの中で走行する車になる。

勝手な判断で運転する車は、自動的に排除される。

電気自動車は、CPUで動く車になるので、自動運転との整合性がよい。充電ステーションの案内、予想される充電時間も、運転中にスケジューリングされる。

特に、都市交通になると、自動運転車レーンと手動運転者レーンとレーン分けが進むと予想される。自動運転車レーンには、無線送電システムが道路の下に配備され、走行中にも充電され、充電頻度も減ってくる。追突事故や正面衝突も少なくなるので、保険料も安くなり、車社会自体が、電気自動車への移行が加速される。

環境を損なわない車は、「④ 安全に行ける。」という条件も満たすことになる。

環境を損なわないから、安全に行けるのである。

環境をそこなわないように、周りの環境に順応しながら、無理なルートを選ばず、無理なスピードで運転せず、無理なハンドル操作をしないので、安全にいけることになる。

次回は、「④ 安全に行ける。」をもう少し突っ込んで考えたい。

 

 

TaoChat@883編集後記

昨夜は職場の飲み会の幹事をやり、深夜遅くの帰宅で風呂も入らず寝てしまった。

今朝は二日酔いで、メルマガの執筆もままならず、お昼近くの発行となった。

それにまぐまぐの方の号数を間違える始末。

論語の言葉を拾った。

ぜいたくと倹約の話から、借金の話になり、消費減税の話で終わった。

ぜいたくは尊大で、倹約は頑固。

尊大になるくらいなら、まだ倹約のほうが救われる。

倹約が目的化するとけちで頑固になるが、倹約の目的が将来の投資の資金作りなら話は健全になる。高齢者の倹約は、そもそも支給される年金の範囲内でやりくりしなけりゃならない事情からくる。消費税の増税は、高齢者の家計にもインパクトがあるが、その金を年金や医療費から生じた国の借金の返済にあてるなら仕方ないかと思えてくる。

それを子供支援に使うとなると、話は変わる。いままでの借金をそのままにして、子供支援に使うと、子供に結局将来の借金を背負わせることになる。

借金をするというのは、ぜいたくの一種と考える。

今、金がないなら我慢するだけのことである。

アメリカの奨学金問題は、そもそも行けなかった大学に借金をして大学に行くことから生じている。リーマンが破産したサブプライム問題も、貧乏人に無審査でどんどん借金させて、住宅バブルを起こし、返済不能になった高額の担保物件を転売して金を生む仕掛けを狙ったもの。

貧乏人にぜいたくさせて、どん底に落とす結果になった。

国のレベルで借金をすることは、責任者なき借金でいきつくとこまで行く。

それをとめるのは、国民なのである。

13本の毒矢

ジェフリー・アーチャーの「13本の毒矢」を読み始めた。

アマゾン古書で求めた平成4年発行のもので、紙が茶色に変色している。

ページを開けると、プーんと鼻の先にかび臭い匂いが漂う。

電子書籍では味わえない、古書を読むというリアルな実感がある。

「ワンナイトスタンド」が面白い。

幼馴染が同じように大学を出て、同じように結婚して、同じような家庭を持ち、ニューヨークで同じ女に出会い、同じように恋に落ちる。

どちらが先に彼女を落とせるか競う。

短編ですが、次々にストーリーが展開していく。

落語のように、落ちもちゃんとある。

アーチャーは短編の天才かもしれない。

そのまえの、「昼食」も面白かった。

主人公の成功を願いつつ、ひやひやしながら、主人公の綱渡りをそばで味わう。

主人公の予想が次々と裏切られるところが、アーチャーの腕の見せ所。

これも落語と同じく落ちがすごい。

アーチャーは自分の経験を、さらにひねりを加えて、書いているようだ。

彼の人生が、政治家であり、偽証罪で服役した過去もあり、大きな波に飲み込まれながら、その苦い経験を「プリズンストーリー」として、また小説にしてしまう。彼の不屈のしぶとさとウィットとユーモアに、英国人の底力を感じる。

 

 

衆議院選挙のゆくえ

衆議院選挙の公示の前に、各党が公約を発表した。

大義のない衆議院解散で、どの党を選べばよいか、選択に困っている有権者が多いと思われる。

自民党公明党は、過半数を占めて、思うように法案を通したいと考える。

有権者としては、思うように国会運営を操られて、国を変な方向に導かれることを恐れる。

憲法改正も何をどう変えるか、明らかにしない。

明らかにすると、選挙戦でそこを衝かれるからぼやかす。

消費税増税赤字国債を先送りして、教育無償化の財源にあてる。

教育費を無償化にするより、何に課税するかをもう少し丁寧に検討して欲しい。

書籍や新聞など、子どもの知育育成に貢献する物品・サービスの無税化を進めたほうがわかりやすい。

希望の党は、企業の内部留保に課税する公約をあげている。

安倍総理は企業に甘い。消費が増えないのは、賃金が上らないので、企業に賃金アップをお願いしているだけ。企業はそれに耳を貸さずに、内部に溜め込むだけ。安倍さんの言葉は現状では無視され、日銀は赤字国債を買い続け、市中に金をばら撒いている。

お金をばら撒いても、消費者のふところには入らず、購買力に活気はない。

従って、企業の内部留保に課税しようとする案に賛成したい。競争力ダウンにつながると経営者は言うが、競争力アップのために投資している企業が何社あるというのか。

アベノミクスが破綻しているのは目に見えているが、追加策に窮している。

原発依存は、自民党公明党お家芸であるが、もうすこし真剣に新エネルギーへのチャレンジ企業に思い切った投資をしてもよいのでないかと思う。

既存企業への執着が与党は強すぎる。既存企業が与党の支援団体になっているので、利益誘導型の政治をしているとみられても仕方がない。

一方、野党は、公約に何を掲げているのかというと、消費税増反対、原発反対、憲法改正反対と大衆迎合型の戦法を続けている。

与党も野党も、何をどうするためにどういう準備をするのか、具体的な案を提示しない。財源がなければ何もできないのは当たり前。

しかし、企業には金が溢れて内部留保にとどこおり、一方超高齢化社会になり介護医療福祉に金がかかる今となっては、財源は、新税導入でまかなうほかはないと思う。

一番やっちゃいけない策は、使用目的のわからない税の徴収である。

消費税増税は、あくまでも国の借金を減らすために目的を限定してほしい。

官僚のやりそうなところが、税金の流用である。

与党野党とも、日本にとってリスクは何で、それを回避するために新税をどのような目的でどう定めるかを、選挙のときに提示して欲しい。

玉虫色の公約では、有権者は踊らない。

この選挙で大事にしたいのは、与党の暴走を許さないことと、公約実行時の有権者の痛みと、有権者が得る利益(有形無形を問わず)をはっきりと掲げる党や候補に投票することである。