TaoChat@877編集後記

昨夜は寒く、朝4時ごろ寒さで目を覚ました。

夏蒲団では足りず、厚い布団を押入れから出してかぶった。

今回は、荘子の言葉を選んだ。

2000年以上昔のひともよく考えたことがよくわかる。

今みたいにスマホやゲームアプリで暇をつぶす機会が多いと、考える事が減ってくる。

昔の人は、空を眺め、飛ぶ鳥の影を見つめて、この影は動いているように見えるけど、本当か?と考える機会にめぐまれる。

荘子の言葉をかみ締めながら、そんなことを思った。

物体とその影は、1対1で決まっている。

この関係は動かしようがない。

物体があらたな位置に動いたとき、前の位置の影はない。

物体の位置をそのまま影は写しているので、この関係は動かないという。

影が動いて見えるのは、アニメのようだと荘子はいう。

まさに、静止画のつなぎあわせで、自分が動いていると知る事ができる。

人間の脳は、情報量がオーバーフローしないように、情報量の少ない静止画の変化で、脳内で動きを作り出している。

ひょっとして、生きている自分、絶え間なく動いている自分の、生の実感も静止画で味わっているのではと思いつき、締めに使った。

蕪村の俳句はまるで天空から眺めた映像を17文字に落としていると時々書いているが、蕪村は、いろいろなアングルから光をあてて、映像を何枚かの静止画(言葉)に落とし込んでいるかもしれない。句を読むわれわれが、頭の中で静止画をつなぎ合わせ、映像を再現しているように思えてきた。

再現映像のほうは句を読む人の数だけあるわけで、蕪村が感じた映像より豊かな映像を生み出す可能性だってある。その可能性を残した表現のほうが文学的には優れたものであるかもしれない。

荘子の言葉は、生きがいという脳内処理にまで話を膨らませる機会を与えてくれた。