昨日はいい天気だったが、今日は梅雨空である。幸い涼しいので、不快な湿気は感じない。庭に植えたきゅうりの実がなり、毎日大きなきゅうりが獲れている。きゅうりというには小さなとげが生えていて、生でかぶりつく前に表面をこすってとげを落とさないといけない。店で買ってきたのはとげがないので、そんなことは気付かなかった。自然に接することは生長の過程に接することなんですね。この一週間の出来事は、病院にいき、心筋梗塞の検査のため、検査入院をすることに決めたのが個人的には大きい。4月に緊急搬送されたときは命に関わる梗塞部分を処置したのだが、医者はまだ他にも梗塞部と疑われるところがあり、その検査が必要だと判断した。正直にいうなら、カテーテルを心臓の動脈に通すのはちょっと怖さがある。間違って血管の壁を破れば、事態は深刻になる。血管の壁は血栓ができ、もろくなっているからだ。しかし、血管がつまって、心臓の筋肉が壊死するほうがもっと怖い。NHKの番組でも言っていたが、心筋梗塞は再発するケースが多い。いくら薬や食事療法で血栓ができる要因を排除しても、できてしまった血栓を減らすことは難しい。加齢と共に血管はもろくなるので、カテーテルを通すこと自体がリスクになる。そんなこんなで心配は尽きないが、また詰まって発作を起こすくらいなら、詰まり具合を検査してもらって、悪いところを一つずつつぶしていくほかはない。ということで検査を受けることにした。
読書のほうは、オースターの「内面からの報告書」を読み終えた。これを読むと、オースターの人生は、住むところを確保することから始まっていることに気がつく。それは母親の家だったり、アパート探しだったり、ホテルだったり、大学の寮だったりする。それは彼が書くためのスペース確保を意味する。パリでの生活の生々しさは、父親からの仕送りが月140ドル、うち宿代が60ドル、食事が1回1ドルという、かつかつの生活からうかがわれる。やはり、From hand to mouthを地でやっていたに違いない。
今回の言葉は蕪村よりいただいた。季節がら、ほたるはちょっと早いかもしれないが、蕪村的ウィットに誘われて選びました。
学問は尻からぬけるほたる哉
学問は頭に一旦入るけれど、尻から抜けてしまう。まるでおならのように。
そこまでは言っていないが、ほたるの光のように、匂いを残さずに、うっすら闇の中に灯りをともす。老子がこの句を出会ったら、思わず然りというでしょう。ほたるの生き方こそ、道に随っていると。目立たぬように、ささやかに知識を放出する。ほたるの光は決して熱くない。からだの中の酵素と酸素が反応して、静かに光る。和光同塵の生き方をする生き物。そんなことを蕪村の句から連想してしまいました。