今日は暖かい。
花粉が舞っているのか、咳き込み、のどに微粉が張り付いているような感じである。
数日前、家内が白内障の手術を行った。
花粉症で眼科に行ったとき、わたしも白内障の軽い状態だと言われた。
白内障のチェックは、夜の道で白色LEDの街灯を見ることで行える。
LEDは点光源で強い光を出す。それを眺めて、点光源が重なっていくつも見え、しかもおぼろがかかって見えれば、白内障である。
その通りに見えるので、わたしもいずれ手術を行う運命にある。
今回の言葉は、老子である。
柔らかくしなやかな状態は生のしるし、堅くこわばれば死のしるしである。
自分の皮膚を見れば明らかである。
しっとりとうるおいのある肌は、生まれたての肌、水分を失いかさかさになっている肌は、死んでむけかわる前の肌。
「動的平衡」の福岡伸一先生が言うように、むけかわるのは体表の皮膚だけでなく、体内の臓器の表面細胞もむけかわるようである。それが便となり、そとに排出される。
生まれたら、後は死ぬだけというのが脳細胞だそうだ。
生き物が生きるということは、全体として生を続けるために、体の部分部分は生と死を繰り返している。
老子のたとえに、堅い岩も柔らかい水に削られるというのがある。
水が生のメタファーになっている。
生命が水から生まれ、細胞内にうるおいを保つことで生を維持し、うるおいを保てなくなったときに生を失う。
人間の場合は、体以外に心を持ち、心にうるおいを保つことで生きがいを維持し、うるおいを保てなくなったとき生きがいを失う。
堅い甲羅をもった亀は老子の言葉に反すると一瞬思った。
堅い体をもっても、敵と戦うための体ではなく、不戦のためのよろいである。
堅くて重い体を持つが故に、ゆったりと構え、穏やかな生活をする。
そのために長生きをする。
そのよろいを誇るのはなく、尾を泥中に曳きながら目立たぬように静かに生きている。
荘子も亀の生き方に、しなやかさを見ていた。