TaoChat@1175編集後記

今日は雨の予報だったが、今は曇り空である。半袖だとちょっと寒いので、綿のジャンパーを羽織ってブログを書いている。相変わらず物価高のニュースが続き、今度は電気代が値上げするようだ。今朝の日経朝刊を見ると、国民は物価高に苦しめられている一方、企業だけがいやに業績がよいようだ。この勢いで貧富の格差は広がっていくものと思われる。少子化が進行するのは当たり前の現象だ。苦しい生活を余儀なくされる若者は、子供に同じような生活をさせたくないと思うからである。その気持ちは、既得権益を有する富裕層を大切にする政治家には理解されない。とりあえずお金だけは適度にばら撒いておけば不満は減ると考えている。この一週間のニュースは、広島サミットか。

何と言っても目玉は、ゼレンスキー大統領の訪日である。日本がウクライナに対する貢献は、戦後復興支援である。ただ、戦後がいつ来るかわからないので、難民受け入れ、医療提供、経済支援が当面の課題となる。今回の訪日でどのような成果が得られるのか楽しみである。個人的には、この一週間は、岩波新書の「ニーチェの顔」を読み終え、コエーリョの「ザーヒル」を半分まで読み進んだ。「ニーチェの顔」は、氷上英廣氏の大分前の本だが面白かった。ニーチェの思想遍歴を文献を引用しつつ説明していてわかりやすかった。この本は学生時代に買ってそのままになっていたが、今回ニーチェの著作を数冊買ったので、それを参照しながら読んだ。「ザーヒル」の方は、カザフスタンの若者が失踪した妻の夫に経緯を語るシーンまで読んだ。カザフスタンがロシアの核実験を450回以上行なわれてきた国だとはじめて知った。今回のロシアのウクライナ侵略で、ロシア戦死者の大半が、周辺国から駆り出されたのイスラム教徒というだ。ソ連時代から、カザフスタン放射能の犠牲にして、ロシアが核軍備拡張してきた歴史を「ザーヒル」からも知ることができた。

今回の言葉は淮南子から選んだ。禅語でもあるようで、メルマガでは禅語的な解釈をしてみた。油断するか否かを問わず、自分が持っている技が、自分を危険に陥れることがある。そのような危険はこの世にあちこちに見受けられる。技の本来の役割は、技を技として扱うのではなく、技を磨く本来の役割に注目する。技を技として扱うと、どうしても技の役立て方に目が奪われ、技を披露する方向に向かってしまう。技が剣術なら、果し合いをして、剣の腕が勝っていることを見せる。しかし、技は本来心を磨くための手段と考えることができる。心を磨くことは、心を解放することともいえる。禅語は、修業する禅僧が覚りを得る状態になる、きっかけの言葉とも言える。善き禅僧は修行に溺れる。というように聞こえてくる言葉である。修行とは心の鍛錬とすると、心が今どういう状態にあるのか、自覚しないと修行にはならない。しかし、自覚している限り、心に囚われており、覚りには至れない。覚りは一瞬に訪れる。その機会を見逃さない眼が大事だということだろう。