入れ子構造の悲劇

たった今、ウクライナ国歌とロシア国歌を聞いたところです。どちらも、国は永遠に滅びずと謳うものです。精神的な強さを感じる歌です。そもそもウクライナもロシアも侵略の歴史を耐えしのいだ国です。かつてソビエト連邦の時代は、ソ連の軍事技術をウクライナが支え、今北朝鮮ICBM開発に使っている技術もウクライナで開発された技術がおおもとになっている。イーロン・マスクがロケット技術を学んだのも、ウクライナを通してのものだった。このようにソ連時代は、ロシアはウクライナの独自性を抑圧しながら、軍事的経済的にロシアの勢力圏下においてきた。冷戦時代の話である。

マトリョーシカ人形で言えば、ロシアという大きな人形に小さなウクライナの人形が取り込まれた構造だった。ウクライナは共産圏の中で生きるしかなかった。その中で生きる限りは、ロシアの支援を受ける事ができた。それがソ連崩壊により、ウクライナは独立し、共産圏以外の自由貿易の魅力を知るに至った。しかし、自国内にソ連時代の栄華の幻を抱く、新ロシア派を擁することになった。マトリョーシカ人形で言えば、新生ウクライナという大きな人形の中に、旧態の新ロシア派の小さな人形を取り込む構造となった。ロシアのクリミア侵略やドンバス侵攻は、新生ウクライナという、いわば他人の大きな人形の中にあった小さな人形を自分のものだと主張し、軍事力で自分の人形の中に盗み取ったようなものである。プーチンが主張するウクライナとロシアは一体とする幻影は、新生ウクライナという大きな人形の存在を認めないものである。ソ連崩壊の原点は、背負うべきものを軽くして、自由主義圏と協調することで、ロシアの生産性を改善するものである。つまりは、積極的な体質改善を自主的に決断したことにある。冷戦に勝った負けたということではない。マトリョーシカ人形で言えば、大きくなりすぎた人形の中に抱えていた小さな人形を放出して、自らが動きやすくシェイプアップした人形に変貌したことになる。ロシアから見るとウクライナにいる親ロシア派は可愛い子分に見えるかもしれないが、時代の流れからすると、自由主義圏と協調するために自己を変革しなければならない分子なのである。新生ウクライナというマトリョーシカ人形の中で自己変革するロシアの姿なのである。ロシアの生産性を改善するためにソ連崩壊という選択をしたのに、今回のウクライナ侵攻は、時間を逆戻りさせ、かつて自分の体内にあった人形の幻影を強引に拾い集める行為と思われる。本来なら、ウクライナにあるクリミアやドンバスにいる親ロシア派の自己変革するの姿を暖かな目で見つめ、そこに未来のロシアの姿を見出すべきだった。そこにロシアの再生があるはずだった。ロシアの若者を戦場に送り無駄な死を遂げさせる前に、彼らの英気を経済発展に集中するべきだった。入れ子構造の悲劇は、自分の中にあった人形を永遠に自分のものだと思う悲劇である。親は子に対し自己を主張するように、子も親から離れれば、親に対し自己を主張する。理由は、親も子もひとりの独立した人間だからである。ウクライナにいる親ロシア派は、ウクライナという子の子供、ロシアという親にとっては孫である。孫がいくら可愛くても、祖父母はその行く末を暖かく見守るはずである。ウクライナ侵攻は、自分の子供を痛めつけて、孫をかばうようなものである。孫に自分の遺伝子を見出すなら、孫の自己変革の姿にこそ、未来のロシアの姿を感じるはずである。ロシアは永遠と国歌に歌うとおり、ロシアの魂は、ウクライナの国内で生き続けるはずである。それを自己変革を恐れる旧態のロシアに取り込めば、永遠に浮かばれない国になってしまう。

この悲劇からの脱却は、ロシア国民が真剣に取り組まねばない課題になっていると思われる。