TaoChat@1079編集後記

今日は朝から暑い。昨日梅雨明けしたとテレビで言っていた。

昨夜雨戸の閉めるときセミの声がしたが、今朝明けるとき、セミが転がっていた。羽も切れておらず死んではいないが、つまんで離しても飛び立たないので、どこか悪くしたらしい。可哀想に思い、つまんで庭の木の根元においてやった。セミの声で夏の訪れを知り、セミには愛着があるので、本当に申し訳ないことをしたと悔やんでいる。もう少し、おだやかに閉めれば、悪くすることはなかったろうに。

この一週間は、個人的には頭部のMRIをとった事が人生初の経験だった。4週間前に職場で平衡感覚をなくし、真っ直ぐ歩けない状態が起こった。酒を呑んだときと同じ酩酊状態で、トイレに行くとき壁に手を這わせて歩いた。3時間ほど休養し帰宅して耳鼻科に行って検査したが、めまいと診断され、めまい薬を処方された。幸い、酩酊状態は翌日は消えた。しかし毎日酒を呑むので、頭までおかしくなったかと心配になり、先週の土曜に脳神経外科に行き、MRIを撮ってもらった。脳梗塞血栓でもめまいを起こすそうだが、幸い、脳の方は正常だった。もう一つは、アルツハイマー病でも見つかるかと心配だったが、それもなかった。MRIに頭を突っ込んだ後、ギーコギーコという音とキュンキュンという音が次々に流れ、脳を強磁場でスキャンされているイメージを描いていた。ただ、クライオポンプの音が子守唄のように聞こえた。とにかく何もなくて、家内もほっとしたようだ。

今回の言葉は、同じ日の午後、NHKの「こころの時間」で聞いた言葉がきっかけだった。

インマヌエルでは、こころが熱くなり涙があふれ出た。神が傍におられるという感覚は、老荘好きの自分にとっても共感できる。クリスチャンではない自分にとって、その神はキリスト教の神ではないが、道としての絶対者(人ではない、宇宙の真理)が傍にいる感覚である。どんな試練を与えられても、それをしのぐしかない。そのしのぐ力を道は与えてくれる。今朝のセミでいえば、セミも自分も道の同胞であり、セミの不幸に対し、それをしのげるように手を貸すことが、インマヌエルだと思った。仏教では自分の中に仏心があるという。これもまたインマヌエルである。慈悲のこころこそが神そのもので、自分がそうするのではなく、神がそうさせると感じることが、神が傍におられるという感覚に違いないと思った。