TaoChat@1073編集後記

夜雨が降って朝晴れる。これが一番望まれる天気かもしれない。雨戸を開けると物干し竿に水滴の粒がついていて、その粒が光り輝いている。今日も一日頑張るぞという気持ちが湧いてくる。庭の木々も光あふれる緑を見せてくれる。今日はそんな朝だった。

昨夜は高校時代の同窓生とZOOM飲み会をやった。出てきた話はコロナワクチン接種が済んだかどうかだった。8人中2人が一回目の接種が終わっていた。自治体の対応を待ちきれず、東京の大規模会場に行く人もいた。一方、ワクチン自体の危険性を憂慮して接種を受けないという人もいた。ネットでは、接種を受けても感染し亡くなった救命看護士が報道されていた。高齢になるとワクチンでできる抗体も弱いため、安心できないらしい。やはり、君子あやうきに近寄らずだとつくづく思う。

今回の言葉は老子である。そもそも天地の始めに名前はなかったというのがよい。一とう道から始まり、二に別れ、それが三になり万物が生まれた。名前は万物を識別するために作られる。識別は、人間の頭の中で物事を再構成するために行なわれる。そもそも区別のなかったものが、住んでいる場所によりパレスチナ人とかイスラエル人とか呼ばれる。名前をつけると、あたかも2つの人種が昔から存在したように考えてしまう。しかし、進化を遡ると結局一に到達する。親は一で兄弟同士が争うのと似ている。

争いの原因は、名前なのかもしれない。老子はそんなことを考えさせてくれる。