TaoChat@1169編集後記

メルマガ発行から2日遅れの後記になってしまった。「リヴァイアサン」を読んだり、買い物に出かけたり、調べ物をする時間に取られたりで、落ち着いて書く時間がなかった。前回の後記で「リヴァイアサン」の英語版を読むのを挫折したと書いたが、本棚にあったペーパーバックを開けたら、どうやら最後まで読んでいたようだ。内容のほうはすっかり忘れているので、新鮮な気がする。訳者のあとがきを見ると、複数の登場人物の心理が互いに絡み合いながら全体の物語を構成しているとある。しかも、あることがきっかけで、心理が少しずつ変化していくところに面白みがあるように思えた。これは何度も読まないと、オースターが狙った妙味を味わえ尽くせないようだ。

この一週間のニュースは、宮古島での自衛隊ヘリ墜落事故がメインとなる。当時の気象状況は良好で、搭乗機が飛行安定性のよいヘリだったので、なぜ落ちたのか原因がわからない。それよりも10人の搭乗員がまだ見つかっていないのが不思議である。台湾有事のための環境整備が急がれる昨今だが、戦う前に落ちていては話は始まらない。しかも自衛隊トップが搭乗しているのに、安全性が配慮されていなかったのは残念である。

今回の言葉は老子からいただいた。「大制は割かず」という好きな言葉である。

料理人の言葉にも通じる。料理人は、素材の美しさ、美味しさを大事にする。素材を切り刻んで、素材のよさを台無しにすることを避ける。老子では、聖人が人材を登用するときの要点に当てはめている。ああだこうだ言って、型に当てはめようとしても失敗する。素質を伸ばせるようにしてこそ、本人も生き生きと成長する。二刀流の大谷君も、そのような指導のもと、今の成長があるように思った。ちょっと視点はずれるかもしれないが、荘子にも庖丁という料理人の話がある。牛を解体するとき、庖丁でやたらめったら切り刻まない。牛という素材の構成を熟知し、どこに庖丁を入れれば、骨と肉がわけなく分離するかわかっている。従って、庖丁は傷むことなくいつまでも切れ味がよい。素材のよさを活かすには、素材の成り立ちを理解するところから始まる。物事は分解、分割することでは活かせない。関係性を理解し、統合することで活かせる。話を拡げれば、世界の平和も、欧米圏、ロシア圏、中国圏と分割してみても達成できない。互いの関係性を理解し、協力関係を保ちながら、統合していくことで達成できると思われる。

TaoChat@1168編集後記

週末が雨という日が続いたが、今日は晴れなので、最後の花見に出かけようと思う。桜に関しては、メルマガでも取り上げた。この一週間は、4日仕事に出かけ、読書の時間が減った。結局往復の通勤時間2時間と、就寝前の30分が読書の時間となっている。今読んでいるのは、ポール・オースターの「リヴァイアサン」を通勤時間で、就寝前は、阿刀田高の「やさしいダンテ〈神曲〉」である。「リヴァイアサン」は英語で途中まで読んで挫折したので、とにかく日本語で読もうと思い、「やさしいダンテ〈神曲〉」はとにかく入門書を読んで全体を理解しようと思ったからである。ダンテを題材にした小説を読む前のおさらいをしたかった。世間のニュースでは、ガーシー元議員の除名処分が印象に残る。選挙に当選したあと、一度も国会に出席せず、手当てだけもらって、外野席から好き勝手なことを言っているので、これは言語道断だった。おまけに旅券返納命令まで出され、旅券失効も時間の問題となっている。まさに国外を逃げ惑う立場に置かれている。往生際が悪いとしかいいようがない。4月からの値上げラッシュも家計に響いている。とにかく消費量を減らして、対抗するしかない。

今回の言葉は、西行の歌を選んだ。桜真っ盛りの今、桜の歌を味わうしかないと思った。桜は満開が見ごろだが、散る桜に感慨は深くなる。文学作品には、この感慨を扱ったものが多い。西行の歌も味わい深い。義父の死も桜の季節だった。桜を見るたびに斎場からの帰り道の桜並木を思い出す。弟の葬儀は、梅雨のころで、梅雨に濡れる紫陽花を自宅の窓から眺めた。紫陽花を見るたびに、弟の死を思い出す。このように自然の景色と思い出はセットになっている。思い出は自然の背景とともに記憶される。西行の歌は、彼の見た情景と共に彼の心情が、自分の胸に再現され、記憶となってとどまるのだろう。

TaoChat@1167編集後記

今日も朝から雨が降っている。花粉のことばかり気になっていたが、黄砂も中国から日本に降り注いでいるらしい。車の汚れを見るとたしかに黄色の粉が目に付く。中国の原発が事故を起こすと、放射能に汚染した黄砂が降り注ぐことになるかもと考えるとぞっとする。核兵器だけが汚染源になるのではなく、原発事故も汚染源となるのは福島原発の事故で身に沁みた。ウクライナでは、ロシアが原発を狙っている。チェルノブイリからモスクワまで852キロなので放射能汚染の被害は少ないかもしれないが、隣国ベラルーシュには放射能汚染がおよぶ距離にある。ロシアの同盟国のベラルーシュは怖くないのか不思議である。一週間のニュースは、WBCでの日本優勝と岸田首相のウクライナ訪問で国内は沸いた。岸田首相がゼレンスキー大統領に地元広島の必勝しゃもじを贈ったというのは、今日の「朝まで生テレビ」ではじめて知った。戦争に勝つというよりも、平和のシンボルである何かを贈ったほうがよかったのではと思う。広島サミットが今夏あるのに、G7国でウクライナを訪問していないのは日本だけなので、どうするのか疑問に思っていたが、ようやく電撃訪問で体面は保つことができた。被爆国日本の平和維持活動の役割は大きい。そういえば、先週韓国大統領が訪日したが、まずは定期的に意思疎通を図る道筋を敷いたというのが成果のなのであろうか。しかし政権が変わるたびに約束を反故にする体質があるのは要注意である。

今回の言葉は、禅語を選んだ。書棚にあった「禅語100選」(三笠書房、知的生きかた文庫)をめくって選んだ。春色という文字が季節ともあうので、第一印象もよかった。意味もタオにマッチする自然観で、それをどう拡げて解釈するのかという余地を残す言葉でもある。この本の解説では、格差社会の進行から、平等感から公平感への移行に注目し、この禅語の説明を始めている。人間社会では平等感が行き過ぎると、差別感が芽生える。確かに、運動会で、一等二等の区別をしなくなったのは、公平感の象徴ともいえる。でも自然界では平等と差別が並存する。それを禅語は語るが、それをどう解釈するかに禅語の面白さがある。ウクライナ侵攻作戦で、プーチンは、徴兵した兵士に呼びかけた。人はいずれ死ぬ。戦場で死のうが、退役して交通事故で死のうが同じこと。これで平等感と公平感が得られるとは思わない。禅語でかもし出される、自然界における「縁」を慈しむこころに欠けている。兵士自身がどういう縁で戦場に駆り出されるに至ったのか、その縁が応召の大義になるのだが、ウクライナはそもそもロシアのものという大義に納得感は得られない。人間は、自己の死に直面すると、平等感と差別感が同時に生まれる。プーチンのように、他人(徴兵した兵士)の死を見る目ではいられない。今回の禅語は、自己の死に直面する前に、腹を決めておけというメッセージでもあった。

TaoChat@1166編集後記

今日は朝から雨が降っている。花粉症の身にとって、雨が降り積もった花粉を洗い流してくれると期待している。東京では桜が開花したニュースが飛び込んだが茅ケ崎の桜はまだである。この一週間のニュースは、WBCのTV観戦に明け暮れた。チェコのチームが意外と強かった印象である。選手や監督が、仕事を抱えての参戦でかなりの実力があるのに驚いた。特に、侍ジャパンの打線は、チェコの先発投手にかなりてこずった感がある。スピードが遅くても、コントロールがよければ、打てないのである。幸い全勝で予選通過できたのはよかった。最終戦のイタリア戦では、大谷選手の気迫が投球にも打撃にも感じられた。投球のたびに、大谷投手の気迫の声が聞こえた。それに打撃でもバントを仕掛けたのには驚いた。とにかく勝ちたいという思いが伝わってきた。

もうひとつの関心は、3月3日に大江健三郎氏が亡くなって、彼の作品を読んでみようと思った。一冊も読んでいなかったので、YOUTUBEの作品紹介を今朝も寝床で見ていた。亡くなっても、茅ケ崎の書店では作品が並べられることはなく、文化度の低さを物語る。本を読む人が減り、さらに文章がとっつきにくいと売れないので、並べないのかも知れない。東京の丸善ならきっと並べているに違いないが、ここはYOUTUBEで情報を集めて、何冊かは読んでみたい。実は何冊か買ってあるが手をつけていない。それから始めてもよいと考えている。

今回の言葉は、「易」から頂いた。「子曰く」で始まるパートなので、孔子が言ったとされているようだ。この言葉の前に、月と太陽の動き、四季の変化から、この言葉を見出したという前書きがある。従って孔子もまた、自然の声を聞き取って、この言葉にたどりついた。明るくなれば暗くなる。暑くなれば寒くなる。自然では、同じ状態がずっと続くことはない。先週の老子の言葉も同じことを言っている。負の状態に直面しても、くじけることなく充電期間だと思えばよい。いずれ、蓄えたエネルギーを放出するときが来る。まあそうなのだが、これは負け惜しみではない。これは自然の法則なのである。自然の場合は、地震で放出するエネルギーで人間は災害を被るので、いいことばなりではない。自然界では、エネルギーの蓄積と放出で、物事が進んでいく。人間にとって、死も生も、ともに前進のためのエネルギーの蓄積と放出と考えると、悲しみは喜びに変わり、喜びは悲しみに変わる。つまりは生死で一喜一憂するなということになる。これは荘子に出てくる死生観につながる。エネルギーの蓄積と放出のプロセスと考えると、生も死も意味をもってくる。自分の死も受け入れることができる。いただいたエネルギーを無駄なく燃焼しつくすのが生の意味だと思う。燃焼して得たあらたなエネルギーを後世の人間に残していくのが死の意味である。表現された意志は後世の人間にとってエネルギーとなる。日本の平和にとって何を意志として残すかが、高齢者の使命となるのは明らかであり、大事な問題である。

TaoChat@1165編集後記

今日は3.11東日本大震災から12年目の日である。天気は晴れて暖かく穏やかで、庭の木蓮も白い花を咲き始めている。あの日のことは今も覚えている。津波の怖さを映像でリアルタイムで味わった。目の前でひとが黒い飲まれていく。どうしても職場を離れられなかった人々。原発の怖さは、海外からの緊急避難指示を通して知る事ができた。東京にいる外国人は放射能被爆が危険なので、東京から退避するように海外から指示が発せられた。とうの日本人は何が起こったのかも知らされず、避難は後手に回った。原発は安全だといっていた学者はだんまりを決めた。あの日を境に価値観が一転するように思えた。一転したのは被災された方々であり、政府のほうは相変わらず原発依存のエネルギー策を続けている。自然のかすかな声は政治には届かないらしい。今回の言葉は、自然のかすかな声を聞こうとする老子の言葉を取り上げた。真実は多言を必要としない。いろんな前提条件が加わると、言葉は自然と多くなる。保険の約款を見れば明らかである。あまりに多すぎて読む気がしなくなる。それに対し、自然の言葉は短い。前提条件抜きで「人は必ず死ぬ」は成立する。しかもこの声は普段かすかであり、災害に直面すると途端に大きく鳴り響く。死の直前まで、誰も自分がまさか死ぬとは思わない。原発支持者は、放射能汚染でふるさとを追われるまで、原発の安全性を主張するだろう。原発の安全性は、いろんな前提条件をつけて解釈される。自然は、その前提条件を覆していく。自然が核反応を役立てているのは、太陽という巨大な核融合炉だけである。「太陽はある期間燃えている」 それだけである。その間、地球は生かされている。それだけである。太陽が核融合で得たエネルギーを人類は光として生存に役立ている。この声は普段かすかであり、太陽が衰え始めるとき、大きく鳴り響く。自然のかすかな声は真実を短い言葉で語りかける。それが耳に入る人は、今の自分に感謝する。

TaoChat@1164編集後記

花粉症の症状に悩まされる一週間だった。風のある日は特に花粉が舞い、鼻の中に入り、鼻水が多く出る。目のかゆみもひどくなる。今日は風がなく、多少楽である。

この一週間のニュースは、特に大きなニュースは無かったように思う。

今回の言葉選びは、春の句を届けることはすぐ決まったが、どの句にするのか迷った。

蕪村の句集の春の部を眺めたり、ネットで検索してみたりで時間を費やした。最終的には、岩波文庫の「蕪村俳句集」から鶯の句を選んだ。蕪村の句は、動的な面白さがある。今回は鶯の初音にまつわる動きである。どんな音楽家でも最初の音は、非常に大事である。その音を発するときの緊張感はあまりある。それはたとえ鶯も変わらない。その緊張感が鶯の動きに表わしたのが今回の句である。初音に期待する人間。その期待を感じ取って、うまく最初の声を発しようとする鶯の緊張感。その二つがぶつかって、鶯の思わぬ動きに現われる。「蕪村俳句集」を見ていると、自然の中の動きをうまくとらえた句が多いことに気づく。

「蓮の香や水をはなるる茎二寸」

蕪村は香りの動きすらとらえている。ここでは、蕪村は香りと一体になって水を離れている。蓮の香りは、茎二寸伸びたところが一番強いらしい。香りは自分となり、自分は香りとなって、空間を漂う。気が集まって自分となるが、自分は気になって浮遊する。

そうすると香りとなった気と共に自由に空間を漂う事ができる。自分はどこから来たのか? 水をはなるる茎二寸からということになる。道(タオ)の教えから、俳句を味わうと開かれた空間に身を置く事ができる。

TaoChat@1163編集後記

今日は久し振りに、メルマガ配送後に編集後記を書いている。ここ2、3週間の間、花粉症の症状が顕著で、目がうるうるしている。くしゃみもよく出る。それに腰痛もひどく、歯磨きのときも腰を曲げられない。くしゃみのときも、腰にひびく。とにかく、痛みが引くのを待つしかない。腰痛はあっても、歩くことはできるので、天気のよい今日も散歩にでかける予定である。この一週間の出来事は、ロシアのウクライナ侵攻一周年の番組が多かった。戦争を終結するには、プーチン失脚か、プーチン暗殺しかないような気がする。プーチンが降りれば、ロシア経済をもとに戻すために戦争終結の道が先決になるのは明らかであろう。ただし、ウクライナへの賠償が求められるので、経済への重荷は残る。なんせ、他人の国に押し入り、インフラや人命を破壊し、はいごめんなさいでは済まされないはずである。軍への召集を逃れて海外に逃げているロシア人もそれなりの経済的負担を負わなくてはならない。

今回の言葉は論語よりいただいた。孔子が生きた時代は春秋戦国時代で、中国が幾つかの国に分かれ、群雄割拠していた。自分の国の安全保障のため、あるときは隣国に侵攻し併合したり、隣国と安全保障条約を結んで、互いに攻め入ることはしないと約束した。弱小国は、強国の臣下になって組み入れられた。そんな時代の国の君子は権力にものを言わせて、反対意見をねじ伏せられることを喜んだ。孔子の言葉はそんな君子に向けて発せられる。まるでプーチンに発せられたような言葉なので、今回取り上げた。言っていることは支離滅裂で、被害妄想のかたまりを露呈する。悪いのはみんな西側の国々。でもやっていることは、旧ソ連邦の国に攻め入り、傀儡政権を作っているにすぎない。こんなことが今の世紀に許されるのかという無念を抱く。しかし、これもまた人類に課せられた現実。ウクライナを支援して、どう乗り切るのかを考えるしかない。