TaoChat@1074編集後記

今日は朝から忙しかった。ニコニコ車検に車の入庫をする前に、スズキアリーナにリコール案件の処置をしてもらうために8時半までにメルマガ原稿を書いて、配信しなければならなかったのである。天気は清清しい陽気で日差しが強く暑いくらいである。ひどい話だが、ニコニコ車検で正式見積もりを出すための事前点検を行なったところ、2年目のリコール処置がされていないと指摘され、ディーラーに電話をしたら、忘れていたとの侘びの言葉だった。ニコニコ車検の誠意に感謝する次第だが、ディーラーの手落ちも覚悟しておかねばならないと認識を新たにした。新車を売るときは頑張るが、売った後は気合が抜けるようである。

世の中はワクチン一色だが、高齢者はワクチンを接種しても、抗体が若者の半分しかできないという千葉大のレポートがあった。副反応が少ない高齢者は、抗体も少ない。男性より女性の方が副反応が強く出るとの報告もあり、抗体は女性の方が多いと予想できる。女性が長生きできるのは、体の作りが男性と違うためと納得できる。認識を新たにしたのは、ワクチン接種しても油断できないということである。ワクチンが景気回復の原動力というのが、政府やマスコミの触れ込みだが、ワクチン打てばもう安心というのは幻想である。個人個人でできる抗体量が異なるからである。集団免疫ができ、伝染しないようになったとき、ある程度の安心ができる。

今回の言葉は、シェイクスピアからいただいた。無についての言葉である。無の大切さは老荘思想の骨格だが、シェイクスピアも同じことを考えていたのか?

人間はものを増やそうと努力する。知識や地位や名声や財産。それらを一度手にすると、今度はそれを失うことを怖れ、気が気でない。中国の習近平さんもロシアのプーチンさんも終身の権力を得ようと躍起になる。それらが最初からない人間は気軽に過ごすことができる。シェイクスピア老荘も、無にして減らすことの大切さを指摘する。仏教の始祖のお釈迦様は、解脱の出発点を地位、家族、財産のすべてを捨てて出家することに置いた。命と行さえあれば解脱できる。捨てるというのはネガティブに聞こえるが、Having nothingだと何故かポジティブに聞こえる。無のありがたさを持つということは、無の用を保つことになる。そうすれば何も失うことはない。いずれ失うのは命であるが、失われるのは自分の命で、失われないのは新たな命が生まれることである。

今回もシェイクスピアの言葉に感謝!

TaoChat@1073編集後記

夜雨が降って朝晴れる。これが一番望まれる天気かもしれない。雨戸を開けると物干し竿に水滴の粒がついていて、その粒が光り輝いている。今日も一日頑張るぞという気持ちが湧いてくる。庭の木々も光あふれる緑を見せてくれる。今日はそんな朝だった。

昨夜は高校時代の同窓生とZOOM飲み会をやった。出てきた話はコロナワクチン接種が済んだかどうかだった。8人中2人が一回目の接種が終わっていた。自治体の対応を待ちきれず、東京の大規模会場に行く人もいた。一方、ワクチン自体の危険性を憂慮して接種を受けないという人もいた。ネットでは、接種を受けても感染し亡くなった救命看護士が報道されていた。高齢になるとワクチンでできる抗体も弱いため、安心できないらしい。やはり、君子あやうきに近寄らずだとつくづく思う。

今回の言葉は老子である。そもそも天地の始めに名前はなかったというのがよい。一とう道から始まり、二に別れ、それが三になり万物が生まれた。名前は万物を識別するために作られる。識別は、人間の頭の中で物事を再構成するために行なわれる。そもそも区別のなかったものが、住んでいる場所によりパレスチナ人とかイスラエル人とか呼ばれる。名前をつけると、あたかも2つの人種が昔から存在したように考えてしまう。しかし、進化を遡ると結局一に到達する。親は一で兄弟同士が争うのと似ている。

争いの原因は、名前なのかもしれない。老子はそんなことを考えさせてくれる。

TaoChat@1072編集後記

今日は雨は降っていないが蒸し暑い。梅雨に入ったような模様である。

世の中は東京五輪に向け、ワクチン接種にやっきになっている。菅首相は何がなんでも開催する意欲であふれている。緊急事態宣言下でも開催するのであろう。ワクチン接種が遅々として進まない日本を危険視して、アメリカまでが渡航禁止をしているというのに。責任はすべて自分がとると菅首相はいっているようだが、収拾がつかなくなったら、ごめんなさいで辞職するのが関の山であろう。犠牲が幾ら出ても、コロナに打ち克った五輪を演出できると踏んでいるのだろうか。あるいはこれを足がかりに秋の総裁選を乗り切ろうとしているのか。まあ、結果は神のみぞ知る。

今回の言葉は、蕪村の句をお届けしました。梅雨のころ、思い出すのは五月雨の句である。芭蕉最上川の句も有名ですが、蕪村のこの句も、自然と人間の対比を詠んでいるところが心温まるポイントだと考えます。蕪村がこの句にまつわる俳画を描いたかどうかはわかりませんが、あったとしても不思議はない。この句を読んで映像が浮かんでくるというのが正しい。正岡子規も蕪村のこの句が好きだったらしい。メルマガでは万物斉同まで解釈が及んだ。細菌のような微生物から、大鵬のような巨大な生き物まで自然は斉しく扱う。人間がコロナワクチンを開発すれば、コロナは変異種に姿を変えることで、ワクチンによる抗体をすりぬけようとする。コロナと人間は互いに鏡のような存在ともいえる。お互いに相手の弱いところを衝いてくる。そして、互いに新たな武器を創造して攻撃の威力は増してくる。ワクチンを打ったから安心できるわけでもなく、引き続き防衛手段をとらなくてはならない。

コロナ対策で大事なのは、自分がコロナウィルスの身になって、人間のどういう行動が隙になるのか考えることである。その隙をなくせば、ある程度の防衛は出来るはずである。ワクチンを打ったから、すべてが元通りの生活になると思ったら大間違いである。その油断がコロナにとって、攻撃のポイントになる。人間の細胞自体が、細菌と共生しながら、健康を保ってきた経緯がある。老荘思想のすぐれた点は、ミクロからマクロまで連続性の中で物事を考える点にある。自分は細菌にとってマクロだが、地球にとってミクロである。しかし、ミクロの人間の日々のカーボン排出がマクロの地球環境に影響を与える。ミクロの五月雨の雨粒がマクロの大河の水かさを増し、ミクロの人間の生活環境に影響を及ぼす。マクロの政治の力は、ミクロの有権者の選択の総合で決定される。すべてが蕪村の句によって暗示されているように思う。

最後に今朝YOUTUBEで聞いた円覚寺の横田老師の管長日記で引用された句を紹介します。一茶の句です。

送り火や 今に我らも あの通り

TaoChat@1071編集後記

今日は晴れていないが、涼しく気持ちのよい朝である。

昨晩は風が強く吹いて四時半に目をさまし、本をちょっと読んで二度寝した。

スマホのニュースで、IOC副会長が緊急事態宣言下でも五輪開催するとニュースを見て、目を疑った。関係者がコロナ発症したときに面倒をみる医療従事者をIOCが連れてくるのですか?と聞きたかった。IOCは興行集団であり、開催するか否かを決める決定権があるとはいえ、日本の状況を度外視した発言に怒りさえ覚えた。ワクチン接種が始まったばかりの国へ何の負担もかけずに五輪開催できるとした強引さに驚くばかりである。海外からの観客まで許せば、日本の医療体制は混乱に陥るのは当然である。ワクチン接種に人が足りないと言っているのに菅首相は一体何を考えているのか?

今回の言葉は老子である。自分を知ること、自分に勝つこと、これが一番難しい。

ネットニュースや新聞を見ても、みんな他人のこと。そういう自分はどうなんだ、といつも思う。メルマガを書いているときも、そういうお前はどうなんだ、といつも思う。ときどき後ろめたくなることもある。自分もできないかもしれないが、そうあるべきだという思いで書いている。自分に勝つ姿勢が著しかったのがイチローだったと思う。常にルーチンをこなし、ヒットの打てるフォームを日夜研究し改善する。最後は体力と集中力の壁にはばまれ引退となったと思う。しかし、引退後も次の目標に向かって、自分に勝つ姿勢を貫いているものと確信します。

話は脱線しますが、先日近所の本屋に行ったら、売り切れだったはずの正岡子規の「獺祭書屋俳話」を売っており、急いで買いました。小序からいきなり老子の言葉で始まります。言う者は知らず、知る者は言わず。話は文語調で書かれていますが、とにかく子規の俳論に浸りたいと思います。

TaoChat@1070編集後記

初夏の陽気である。庭の木々の緑がまぶしい。自分の好きな色は緑である。緑は眼に優しい。自然の緑を見て心が癒されるのは、緑が眼に優しく、緑から吐き出される空気がうまいからだと信じている。光合成を行なうミドリムシユーグレナと呼ばれて注目されるのは、五億年以上生き続けているその生命力に起因しているからだと感じている。

話は飛んだが、今の世間の話題は、東京五輪とコロナ対策である。ワクチン接種券はもらったが予約できない。そして接種する人材が不足している。国の政策は機能せず、地方自治体がアイデアを活かして独自の体制で、目前にせまる課題を地道に解決するしかない。それが現状だといえる。自分の接種予約券は受け取ったが、電話予約が気が重かった。ひょんなことから家内が昨日受診した医者が予約を受け付けているのを聞き、今朝朝いちでそこにおもむき、予約だけは済ますことが出来た。7月中に2回とも済ます事ができる予定である。いずれ第5波なり第6波がくるので、それまでに抗体ができればよい。だからあわてて接種する必要はないが、予約しないと接種できないので予約に走る。政府は抗体を持たない国民を犠牲にして、是が非でも五輪を開催するようである。太平洋戦争の戦時下と同じく、国の威信をかけて竹やりで戦えと言っている。

今回の言葉はゲーテの言葉である。シェイクスピアは、「終わりよければすべてよし」と言ったが、ゲーテは初めと終わりを結びつけることのできるひとが最高だという。

初めがあっての終わりである。人生は初めがよくても終わりはよくない場合もある。

メルマガを書いたあとに思いつくことも多い。それを書き付けるのが編集後記である。

初めと終わりを結びつけることとは、まず第一に無事に生まれてきたという幸運に感謝することがある。これが初めがあっての終わりである。第二に初めも終わりも同じこととするのが仏教的、老荘的な見方である。無から生まれ、死んで無に帰る。最後に因果応報がある。初めは原因で、終わりは結果である。初めと終わりを結びつけて納得できる。そんな生き方が最高の生き方ともいえる。

TaoChat@1069編集後記

5月連休が終わり、何となく落ち着いた週末を迎えた。

天気もよく暑い日になる予報も出た。

世の中は緊急事態宣言が5月末まで延長されたが、菅首相の言葉には五輪開催は押し切るような意志が感じられる。何が何でもといった様子である。

変異種がまん延し、ワクチン接種が低迷する中で、最悪の状態で五輪開催となるのは想像するに難くない。五輪開催を期に、五輪記念変異種が生まれることもあり得る。

なるようにしかならないのがこの世のことなので、自分の身は自分で守ることが残された道になる。

今回の言葉は、漱石の俳句から選んだ。今、大岡信氏の「瑞穂の国うた」(新潮文庫)を読んでいて、漱石の句が紹介されていたのがきっかけです(ただ、今回の句は本には紹介されていません)。漱石と子規との友情についての文章は面白い。アイデアを重んじた漱石と、レトリックを重んじた子規という対比が読み応えがある。今回の句も荒削りだが、アイデアにほっこりする。

イデアにはユーモアがなければいけない。「我輩は猫である」も「坊っちゃん」もユーモアにあふれているが、筋を通すというアイデアが背骨になって生きてくるユーモアである。猫には最後まで名がない。坊っちゃんは親譲りの無鉄砲で最後まで損ばかりしている。人間というもの、あっちにふらふら、こっちにふらふら、思い悩むものだが、背骨となる基本姿勢をもっていれば、そこに立ち戻って物事を考える事ができる。その背骨から発するユーモアには深い味が出てくる。

TaoChat@1068編集後記

5月連休が始まった。5月5日まで休みが続くようだ。

今日は朝から天気がいいので、運動がてら車でも洗おうと思う。

先日車の免許更新に行ってきた。あいにくゴールド免許ではないので、後日講習を受けなければならず、しかも更新の料金も高かった。更新期間も短いので、違反はしないほうがよい。この一週間の出来事は、飛鳥2のクルーズ船でコロナ感染者が出て、クルーズ取り消しになったのが印象に残った。出航直前にPCR検査して、見切り出航したところ、海上で感染が発覚して、ツアーの取り消しとなった。去年のクルーズ船の経験が全く生きていなかったのが悲しい。緊急事態宣言が出ている最中の出来事で、日本のコロナ対策をある意味象徴していると思った。一言でいうと、「大丈夫だあ~」と乗船した客も出航した会社も考えている。この言葉を言っていた、馬鹿殿様こと、志村ケンは亡くなってしまったが。この意識は、変異種が蔓延しつつある状況下で、オリンピックを強引に開催しようとする政府にもあるように思われる。ワクチン接種は気休めに過ぎないのに、それすらオリンピック開催に間に合わない。昨日プライムニュースを見て驚いたが、大量の感染者が出ているインドから渡航者の制限をかけていないことだった。まさに「大丈夫だあ~」の証しともいえる。どこで政府の歯車が狂ったのか? 最初から狂っていたといえる。PCR検査を行なわず感染を放置し、感染者が拡大すると中途半端な緊急事態宣言をかける。結局経済を優先し経済を失っている。政治家も、日本はお願いしかできないと開き直っている。国民は自分の命は自分で守るしかない。この結論は最初から変っていない。このブログを書いている途中、部屋が揺れだした。また宮城県沖で地震が発生したようだ。自然はコロナからの回復を持ってはくれない。

今回の言葉は論語からいただいた。野末陳平氏の著書「孔子老子」で見かけた言葉である。論語は学習の書である。師は身の回りどこにでもいる。三人寄れば、互いが互いの師になる。師と言うのはよいことだけを示さない。悪いことを示すのも師である。他人のことはよく見えるが、自分のことは見えない。師にされることを知って、わが身を引き締める。親は子供の師のように考えるが、反面教師の場合もある。子供が師になることを親は肝に銘じなければならない。他人の行動を浅ましいと思うとき、自分もそれをやっていないか自省する必要がある。

老荘にとって師は自然である。自然の摂理と人間のふるまいの違うところに目を見張る。自然界では、自分の死骸は他の生き物の生の糧になる。人間だけが灰にして墓に埋めようとする。生物学的に言えば、自分の遺伝子は子孫に受け継がれている。何故骨という物質にこだわるのか? 千の風になって、といういい歌がある。骨に魂が宿るわけではない。魂は風になって、いつでもわたしたちを見守っている。