五月も最終土曜日となった。
今月は、私的に様々な出来事があり、長い一月だった。
10連休が遠い昔の出来事のように感じる。
今回の言葉は、柳宗悦氏の「茶道論集」(岩波文庫)から拾った。
茶道はやったことはないが、興味はある。
「奇数の美」は老荘の考えに一致するもので、茶が禅宗の栄西が伝えたもので、禅の考えが茶道に溶け込むのは、想像に難くない。
「大成は欠けたる若く、其の用は弊れず」とある。
完全なものはどこか欠けているものがある。
でもその働きは絶えない。
どうして働きが絶えないかというと、常に不完全なものを持っているから。
大自然の中で完璧なものなどない。
ルビーもサファイアも、不純物を宿しているから、美しく輝く。
人間だって、不完全性を相互に補うために、社会が成り立っている。
完璧なものを求めるのは人間だけである。
「奇数の美」は、老子ですら、用=働きでとどまったものを、日本の先人たちは、美に昇華している。
障子は、紙で目隠しで、紙で光を取り込む。
紙だから必ず破け、それを毎年張り替える。
障子もまた、「奇数の美」である。
不完全だからこそ、そこに美しさが現れる。
紙の繊維の模様が光に透けて眼に入り、光の射し具合で、部屋にいながら時の流れを知る事が出来る。
樹木の枝葉の影が障子に映り、その陰翳の動きにより、気の流れを感じる。
障子のすべての構成が、「奇数の美」をかもし出す。