平成という時代が過ぎつつある。
平成元年が1989年だから、37歳のときである。
仕事に少し自信が持ててきて、思うように働けた30年でした。
1985年より1987まで国外に居たので、帰国後のバブル景気の異常さに面食らった覚えがある。何でそう浮かれているの?という感じだった。
バブルがはじけてから経済は低迷し、経営陣は臆病になり、リスクを犯さずに商機を逸した。 半導体産業は崩壊し、スマホは海外勢に圧倒されて、今に至る。
戦争は起きなかったが、日本人の心が病んだ時代でもあり、大災害により心の結びつきの大切さを学んだ時代でもあった。
人間はいつも自然から、生きる上での大切なことを学ぶ。
2000年以上も前に、老荘思想が自然から学んだように。
今回の老子の言葉は、意味が深い。
完璧なものはどこか抜けている、それでいて、役割はきちんと果たしている。
逆にいうと、完璧に見えるものは役割を果たさず、手を抜いている。
自然というのは予測不能であるが、生命を維持するという役割を手を抜かず、いつまでも果たしている。
平成は思い上がりの時代といったが、完璧に見えるものは手放しに受け入れずに、まず疑えということである。テクノロジーはその一つである。
高齢化社会になり、高齢者は真っ先に詐欺のえじきになっている。
そろいすぎる完璧なストーリーに飲み込まれて、現金をだましとられる。
高齢者に求められる人間像は、抜けているように見えて、役割をきちんと果たしている人間である。
思い上がった人間は、こんな人間にはなれない。
なまじ地位とか権力に溺れた老人が、謙虚さを忘れて、思い上がったうえに、果たすべき役割を忘れている。
そんな悲しい世の中になってほしくない、令和は。