編集後記をだいぶサボってしまった。
花粉が飛び始め、マスクをしててもくしゃみが出る。
昨夜はふとんにはいって、鼻の奥がむずがゆくなり、花粉の存在を肌で感じた。
今回は、機中で見た「終わった人」から、良寛さんの句を選んだ。
この句は、桜だらけだが、いいたいことがしみじみわかる。
そういう年齢になった。
思い出せば、40歳になったとき、人生半分生きたという感慨があった。
山登りなら、頂上から下る一方だ。
そんなとき、老荘思想の味がよりふかく鑑賞出来る。
わが敬愛する蕪村の辞世の句は、「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」となかば芸術的で映像的な、死出の旅立ちを映し出す。夜が白んで、薄明の中、白梅が浮き出て見え、自分の死を見送ってくれる。
良寛さんの句は、散る桜と残る桜を両方見ている。
皆に見送られている、あたたかな死である。
散っていく自分と、それを見守る残る桜。
残る桜に向けて、いずれ会おうと呼びかけているようである。
また、散った桜として会えるではないかと、語りかけているようである。
生きている人間は、自分の死を見ることはできない。
他人の死を見ることで、自分の死をイメージすることができる。
自分の死をイメージすることで、今の自分が、死んでいる自分とどうつながっていくから予想できる。
良寛さんの句は、自然の定めをそれとなく教えてくれる。
当たり前のことだが、ひとは自分は別だと思いがち。
自然災害に遇うまでは、まさか自分が遇うとは思わない。
3.11はもうすぐだが、これが首都圏で起こったらと真剣に考えているひとがどれほどいるか心配になる。