今年最後の言葉は荘子で締めくくった。
世間の今年の言葉は、「災」だった。
それを見て、自分の一年を振り返ると、確かに想定外の事件がいろいろあった。
それを「災」と見ることもできるが、歳を重ねると当然起こるような事件だった。
「災」が警告するメッセージに気づくか気づかないかで、これから後の生き方が変わる。「覚」は、「災」が警告するメッセージに気づくことである。
最近、ETVでマルクス・ガブリエルというドイツの哲学者が、「世界は存在しない」と言っていたのを見た。
世界はあれではない。
認識する主体から離れて、あちらにあるのが世界というのが世界だとしたら世界は存在しない。
世界で災いが多く起こったのが今年である。
ところが、災いはあちらにあると考えているかぎり、災いはなくならない。
災いはあちらこちらの区別を超えたところにあり、それをどのように福に変えうるのか、人間の課題のように思える。
それを考えさせる荘子の言葉だった。
ガブリエルの世界が、あちらの世界だったとしたら、世界は存在しない。
災いは己の中にあると気づくことで、災いを福に変えることができる。
自らの認識を変えることで、世界は違って見える。
覚は、災いを乗り越える術であると言ってもよい。
来年は、日本が世界が覚醒する年であって欲しい。