TaoChat@939編集後記

今日は11月だというのに暖かい日だ。

昨夜元の会社のOBと飲み会があり、酔いが残っており、昼近くにようやく原稿が書けた。荘子の言葉をお届けした。

老子荘子はわたしの人生にとって、バイブルとなっている。

夢の話は、胡蝶の夢の方が有名だが、大覚が大夢を導くという言葉に惹かれた。

人生は夢の如しとは誰もが言う言葉だが、本当に夢と思えるには「大覚」が必要だというのは荘子だけである。多くのひとは、夢のようだといっても、まだ夢から覚めていない。本当に覚めるのは、死の直前である。

信長も本能寺で火に包まれながら、しみじみと人生の夢幻を悟った。

遣り残した夢はまだ多いのに、生まれた以上いつかは死を迎えるにしても、今だったのかという心境だったに違いない。

「大覚」→死→切断を連想したのは、昨日の自分は明日の自分に続くという連続性の思考のままでは、悟りに至れないと思ったからである。

明日の自分がないという場面に至ってこそ、生きてきた意味を真剣に考える事ができる。大愚和尚も語っておられたが、人生の岐路においての決断は、明日死ぬと考えたときに自分はどういう選択をするかと考えてすればよいと。

死というのは大覚のきっかけを与えてくれる。

なぜならば、死は生の切断であり、連続性思考のリセットであるからである。

どう生きるかは自分が決める。

生まれ変わりたければ、連続性の切断が必要になる。