台風が近づいてくるので、朝から強い雨が降っている。
今週は、猛暑で多くの方が熱中症にかかり、オウム事件の残りの死刑囚の刑の執行が終わった。死刑執行は終わっても、事件の後遺症は消えない。
最後の晩餐がイエスキリストと12使徒で行われたように、麻原氏と12名の部下の死刑が重なり合う。麻原氏の死が殉教としてみなされれば、宗教的な地位はますます高まる。
それを法務省は恐れる。
関係者の証言を読んでいると、人間というのは心弱き存在であることを思い知らされる。入信せずに普通の生活を送っていたら、よきパパでありよき夫になっていた人たちである。どこをどう階段を踏み外したのか、知りたいがその道は閉ざされた。
今回届けた荀子の言葉は、人間は生来心は弱く、自分を大事にするあまり、人間的になる道を踏み外しやすいという。生れ落ちたあと、どのように修養を積むかで、人生が大きく変わってくる。信仰に帰依するのは、イエスキリストの時代からあった。
修養を積む手段として、信仰を利用するのは一つだが、修養を積むのは己の魂であり、魂を信仰に売り渡すのは最大の誤算である。
信仰の世界は狭い。信仰のそとには広い世界が広がる。
その異質の世界を知らずして、修養を積む事ができない。
荀子の言葉は、偽は善の道という。
偽は神の教えに従うことではない。
人の日々の行いにより、成長することである。
神に従っていれば成長できるものではなく、あるときは神とぶつかり、あるときは他人とぶつかり、試行錯誤により修養を積んで、人間的になっていく。
信仰に入る前に東洋哲学を学んでいたら、救いの道はあったのではないかと思った。