3.11東日本大震災から7年目になろうとしている。
あの日を境に人生が一転した方々を取り上げた番組があちこちで放映されている。
福島原発の放射能汚染で故郷を追われた方は、あの日を思い出したくないかもしれない。
わたしも帰宅困難になり、家にたどり着いたのが夜の10時過ぎだったと記憶している。
その後、輪番停電になり、ろうそくで夜を過ごした記憶も残っている。
しかし、一番考えさせられたのが、生と死のことだった。
従って、今回は、それを考えさせる言葉を「淮南子」に見つけた。
大災害に直面し、生と死のはざまを漂い、運よく生き残った者に捧げる言葉である。
生き残ったことに罪悪感を覚え、心の傷を負う事もある。
生き残ったことは、生き残れなかった者からバトンを託されたことでもある。
身体は離れ離れになったが、心には生き残れなかった者の思いが残る。
それを自分なりに大事にして、生きる糧にする。
死者の精神は生き続ける。それがバトンを引き継ぐことだと思う。
前回は、読書の意味を考えた。
本には死者の精神が詰まっている。名著と呼ばれている本の著者はとっくに亡くなっている。しかし、著者の精神が各世代で引き継がれている。
その歩みが、家族ベースで引き継がれるのが、「淮南子」がいう精神だと思った。
その時の死者の精神は、言葉で表現するというより映像で表現されている。
自分がその映像を記憶し、それをどう解釈するかで、精神の深みは増してくる。
「淮南子」は、生きる者に生きる糧を与えるのは、永遠に生き残るという。
自分が受け継いだ精神を言葉ではなく、行動や姿勢で示したとき、そしてそれを次世代が映像として記憶したとき、精神は初めて受け継ぎの機会を得る。
そこでは、言葉で表現する以上の影響力を精神は持っている。
大災害でなくても、生死の別れはやってくる。
そのときになって自分は何を遺せるか慌てるより、日頃から、いつ死んでも悔いのない生き方を示すのが、次世代へ伝える精神の磨き方といえるのかもしれない。