日の長さも短くなり、空気も澄んできて、虫の鳴き声がもの悲しく感じられる季節になりました。秋の和歌が欲しくなる季節でもあり、いにしえの人々の気持ちをたどることにしました。
文教堂のカバーのついた岩波文庫の「古今和歌集」の離別歌をめくりました。
平安時代も江戸時代もまた現代も、見送るひとと見送られるひとの気持ちは変わりません。今回の和歌にもそんな気持ちの交換がみてとれます。
原稿を書いているうちに、芭蕉の「奥の細道」が思い出され、書き加えてしまいました。昔のひとの旅も、自発的な旅とひとから頼まれた旅があるようです。
ひとから頼まれた旅は、きっとメールなどない時代ですから、言づけを頼まれたり、ものを届けるのを頼まれたりすることもあったでしょう。そんな旅は、途中でやめたくてもできません。用事を済ませるまでは帰れません。
自発的な旅は、気分が楽でいつでも止められます。
今回の歌の詠み手の源実さんはどっちの旅だったでしょう。
ことばをそのまま受け取れば、行くのがつらいから帰ってしまおうとなりますが、そこは芭蕉的な感慨を読み取りたくなります。
そもそも大勢の見送りがあるということは、ひょっとしてもう会えないか、長い間会えないことが前提です。行くのがつらいから帰ってしまおうという気持ちは見送りの別離の念を受けた感情です。
帰りたいのはやまやまだが、自分で決めた旅なんだからという思いがある。
そう簡単に初心は曲げられないという思いがあるはず。
芭蕉は、済んでいた住居をひとに譲り、旅に出ている。
もう帰れないことを前提に江戸を出ている。
原稿も、老荘的な人生への覚悟を絡めて、綴っています。
折りしも衆院選が決まり、民進党の分裂が「ひとやりの道」で余儀なくされました。
民進党の面々がこの歌を詠んだときどのような思いになるのか、想像してみました。
政治とは、「ひとやりの道」そのもの。自分の都合で解散できるのは総理のみ。
「ひとやりの道」のなかで、どう選択して政権をとるかが政治家なら、選んだ道を曲げずに、有権者に問うのが選挙。 死出の旅になるか、希望の道に至るかは、自分しだい。選択した以上は徹底抗戦と、チェゲバラの気持ちで選挙を戦ってほしいとの思いで締めました。