車社会の行く末その1

車社会の行く末を語るまえに、自分と車との関わりを話そうと思う。

車が進化しているのは、生まれてから今まで、車との関わりを思い起こす中で見てとれる。子どものときに家に車はなかった。その当時、車は高価なもので裕福でなかった家で買うことはできなかった。初めて家で車を買ったのは、小学校6年のころ、中古の日野ルノーだった。おやじは電車通勤だったので、そもそも車は生活に必要なかった。ある日、突然車で帰って来て、首都高にドライブすると言い出した。なぜ買ったのか、よくわからなかったが、子どもに車のよさを伝えたかったのかもしれない。家に駐車場はなかったので、線路横の道路に路駐していた。当時は駐車場がなくても車が持てた時代だったのか。その車で伊豆半島先端の仲木まで海水浴に出かけたことがあった。子供心に車は便利なものという印象をもった。ドライブ中退屈なので、トランジスタラジオで音楽を聞いていた。その車にはラジオがついていなかった。クーラーもなかった。とにかく移動のための道具でしかなかった。

中学か高校のときにまた突然車は家から消えた。理由は、おやじのドライバーとしての資質だったように思う。運転免許の更新を放棄したのである。注意散漫なのか、運転することに恐怖を覚えたからと言っていた。

事故の一歩手前の経験をしたのかもしれなかった。

それが災いしたのか、わたしも大学に入っても免許を取らず、とったのは、就職後、陸の孤島に住み始めてからだった。実家に次に車が入ったのは妹が結婚して買ったBMWで、実家に帰ったときその車が突如駐車場を占拠していた。何様かと思ったが、その妹も離婚して、実家に住み続けている。BMWも亭主とともに消えている。今回の最後の教訓は、車は所有者の懐具合を表現するが、自分のライフスタイルを語る装いといえる。身の丈にあった車を選ぶべきである。(その1終わり)