TaoChat@911編集後記

4月最後の週になった。

今回は、英語の言葉を選んだ。

「叡智の断片」には、池澤夏樹さんの集めた名言が沢山載っている。

そのなかから、前向きな言葉を取り上げた。

失敗にするか否かは、失敗にくじけて道半ばであきらめることである。

失敗は前進のためのこやしである。

それを英語で表現したのが、今回の言葉である。

技術開発や研究開発に従事していた経験からなるほどと思う。

何か発明や発見しようとしたら、失敗の連続から何かを学んで前進することに尽きる。

失敗の原因を考えずに同じ過ちを繰り返すことが失敗に導く。

ボーボワール人間について」という書に、

「人間は自分を選ぶことによってしか存在しない」という言葉がある。

失敗した自分を見て、失敗でくじける人間ととるか、うまくいかない道を発見した人間ととるかで、将来の道はまったく違ってくる。いい意味でも悪い意味でも、選択したとおりの自分になっていく。

今回の言葉を発したのは、冒険家である。

代わり映えのしない日常を、冒険にするか否かは、自分の選択にかかっている。

マイナスをプラスに変える選択の連続です。

地下室の手記

ドストエフスキーなんてこれまで一度も読んだことはなかった。

どうしてこの本を読むことになったのか。

訳が読みやすかったのと、ページ数が少なく、僕の独り言がえんえんと続くので、興味をそそられたからもある。

主人公の僕の自意識についていけないところが多々あるが、僕がこれほどまでに自分の内面をさらけ出した小説を読んだことはなかった。

別にストーリーがあるわけではない。

いろんな場面で他人と会って、他人の考えていることを発言から予想し、それに敏感に反応している流れが書かれている。

読んだ後に何が書かれていたのか説明するのが難しい。

ドストエフスキーは、ストーリに重きを置いておらず、人間の内面、心理の動きを赤裸々に表現することに重きをおいているからだろう。

あるときは共感し、あるときはそこまで分析するかと引いてしまう。

ねっとりした液体が心にまとわりつく感じである。

この感覚を味わわせてくれる小説であった。

TaoChat@910編集後記

4月の気候は好きである。

花があちらこちらに咲き乱れ、カラフルな町並みが見られる。

最近も夏日の日もあるくらいで、もう少し日差しがやわらいで欲しい日もある。

花粉症なので、花が微粒子に敏感となる。

電車で冷房が入ると、天井のファンからダニや見えない粉塵が舞い降りる。

途端にくしゃみが出る。

4月にしては症状がいつもよりひどい。

今日は菜根譚を選んだ。

成と生の対句になった言葉だが、あえて始めの方の成の言葉をとった。

それだけ読むと、何と空しく響く。

どうせ、いつかは壊れるものだから、必死に作る気持ちは強くはならない。

でも日常を見回せば、人間の活動なんて殆ど無駄に壊れるほうが多い。

恋だって、成就する恋のほうが少ない。

でも恋をあきらめるかというか、そうではない。

恋を育てるプロセスのほうが楽しいのではないか。

でも自然界では、つくったものは必ず壊れていく。

生物は寿命を迎え死にいたり、土に帰って生命を生む。

一見ネガティブに見えた成の言葉がポジティブに見えてくる。

自然界では当たり前のプロセスが、人間界に入ると、自分の作ったものとか命が保存されることを願うようになる。

人間だって、自分で自分を作ったわけではない。

作られたものである。それが、なくなることを恐れ、思い惑う。

それを教える菜根譚の言葉である。

始めの成の言葉は、それを教える導入部だった。

人間を作った自然の立場で、人間を表現している。

それに気づくまでの過程がメルマガの内容となった。

考えるプロセスを書いているので、毎号が中途半端で、始まりと終わりが食い違うこともある。この不出来はご容赦お願いします。

考える葦は一生続くので。

 

TaoChat@909編集後記

花粉症の症状がひどく、目がかゆく、うるうるしている。

今回は、孫子を選んだ。

老子の思想の影響を受け、勝利の戦略を考えた孫子である。

そもそも戦わずして勝つと言うのが老子の考えを受け継ぐ。

不争が原則。

できるなら戦いたくない。

勝ったなら、敵の民や土地を活かし、共存する。

そんな孫子の戦い方の基本が勢いである。

勝つためには、味方の勢いを生み出す。

同時に敵の勢いをくじく、奇策をとる。

そうすれば、敵は戦意を喪失して、戦いなくして勝利できる。

戦いには、優れた兵士が必要である。

勢いを忘れ、優れた兵士に頼ると勝利はおぼつかない。

人材に頼っても、兵士に勢いがなくては、戦闘に負ける。

アメリカがベトナム戦争で負けたように。

アメリカは、ナパーム爆弾や、枯葉剤や、最新兵器でベトナムの密林を焼き尽くした。

しかし、兵士はなぜベトナムで戦って命を落とすか疑問を持った。

共産主義というイデオロギーは違うものの、同じベトナム民族をなぜ分断する必要があるのか。そこにはすでに勢いはなかった。

反対にベトナムは、機関銃と竹やりと地雷とゲリラで勝利した。

また民族統一という勢いがあった。

勢いというのは、シーソーみたいなもので、敵に勢いがあるときは、味方の勢いは圧倒される。

勢いは周期的に繰り返される。

勢いがないときは、耐えるしかない。

勢いをコントロールすることが、勝利に繋がっていく。

人生も長期戦と考えれば、人材というのは、自分の能力みたいなもの。

それに頼っていても勝利はできない。

勢いをどうつかんで、それに乗っていくか?

まるでサーフィンである。

波に乗れるのはほんの一瞬である。

波は消えても、また波は遠くからやってくる。

それをどうとらえるか?

孫子の戦略も、サーファー的な戦略である。

今回も、後記のほうが面白いような気がする。

朝鮮統一その2

朝鮮統一で思い出したのが、ベトナム戦争である。

つい最近ベトナムカンボジアに観光に出かけた。

私のベトナムのイメージはベトナム戦争が強烈である。

私が高校生の頃は、沖縄の嘉手納基地からB52が飛び立ち、ベトナム爆撃が毎日行われていた。落とす爆弾もナパーム弾で、ジャングルを焼き払うもの。また枯葉剤を大量に散布して、田畑を枯らすこともやり、今でも、人間の染色体異常により、奇形の後遺症が残っている。そういうわけで、アメリカは冷戦のためか知らないが、ベトナムではひどいことを行ってきている。

当時のベトナムは、ホーチミンの率いる共産主義北ベトナムと、アメリカが軍事基地を持つ南ベトナムに分断されていた。

北ベトナムはベトコンというゲリラ活動で南ベトナムに侵入し、アメリカ軍を脅かした。アメリカ軍にとっては、南ベトナムの村民なのか、ゲリラ軍なのか、判別できない。そこで、ソンミ村全員をゲリラと考えて、大人から子供まで虐殺する暴挙までやってのけた。しかし、北ベトナムの猛攻に負けて、アメリカ軍は撤退し、北ベトナムベトナム民族統一を成し遂げた。

朝鮮民族の分断も、日本の植民地支配が日本敗戦により終結したと同時に起こった。

これも冷戦のためで、北は中国共産党のバックアップで、北朝鮮南朝鮮に攻め入った。目的は、朝鮮民族解放のため、朝鮮民族統一のためである。

アメリカは南朝鮮(韓国)に軍隊を派遣し、朝鮮戦争が始まり、すったもんだのあげく、38度線で休戦協定を結んだ。

北朝鮮も起こりは共産主義だが、共産主義世襲制の独裁主義に変貌した。

それが北朝鮮が核保有化の道を歩くきっかけになった。

歴史の流れからすれば、朝鮮民族統一はいずれ実現すると考えられる。

戦争なしに統一するには、北朝鮮人民の意思が重要となる。

このまま、独裁政権を許すのか否かに関わってくる。

イラクフセイン独裁政権のように、核兵器保有を理由に戦争をしかけるわけにはいかない。北朝鮮人民が、反独裁政権のゲリラ展開するしかない。

韓国が、北朝鮮を取り込み、北朝鮮県の県知事に金さんを任命するという手もあるが、独裁を行っている金さんが承服するわけがない。

何のために犠牲を払って、切り札の核兵器開発してきたのか、わけがわからなくなる。

それをするなら、中国の傘下に下り、北朝鮮自治区として、独裁政権を認めてもらったほうがよいと判断するかもしれない。中国の一部なら、核兵器の基地の存続も可能である。アメリカや日本に対し、核基地の最前線になる。

ということで、朝鮮民族統一を朝鮮民族みずからどの程度真剣に考えているかで、朝鮮民族統一の可能性は決まる。

民族統一より独裁政権維持をとると、中国の傘下に入り民族統一をあきらめるか、核兵器を切り札に使って、援助をもらって、北朝鮮人民の支持を得るかするでしょう。

独裁政権維持よりも民族統一をとるなら、韓国の傘下に入り、自治区の親分に成り下がるか、独裁政権を廃止し、北朝鮮人民の民主化を図らなければならない。そのとき、金さんの居場所はなくなる。

朝鮮統一に部外者として思いを巡らすと以上のような筋書きになる。

 

 

 

TaoChat@908編集後記

4月初のメルマガである。

こちらは桜の季節は終わってしまったが、蕪村の句で日本人が感じる桜をお届けした。

戦時中は、「散る桜」は国のために命を捧げる軍人を思い出させた。

桜は、日本の国花であり、日本人の心の中にある特別なイメージを想起させる。

義父が亡くなったのも、桜の頃だった。

葬儀場からの帰り道、桜並木がきれいだったのを覚えている。

悲しみとともに、桜の散るように旅立ったとぼんやり思った。

最近、闘病中だった、高校のクラスメートの女性が旅立った。

卒業後、同窓会開催に永年お世話をしてくれた方である。

桜がきれいと近所の公園に花見に出かけて帰って来たところに訃報のメールが届いた。

桜の頃の死は、花とともに旅立つ方を見送るという思いを起こさせる。

桜の木は人間よりも長生きする。

毎年人間の死を美しい花で見送ってくれる。

蕪村の句は、風に散る桜と無風でも散る桜を詠う。

風があってもなくても、美しいのは「散る桜」である。

国があってもなくても、美しいのは「散る桜」である。

どうしてか考えると、自然は常に移ろい、美しさを再生するからと気づく。

「散る桜」をひとに置き換えると、ひとは限られた期間しか生きることができないが、その中で精一杯生きて、次の世代に何かをバトンタッチして、再生していく美しさといえるのではないか。

東日本大震災からの再生も、「散る桜」の繰り返しの果てに成し遂げられるのではないかと思ってしまった。

 

 

朝鮮統一

経済制裁の効果なのか、北朝鮮が態度を軟化して、米国に寄り添ってきた。

段階的非核化というえさで、制裁の停止と経済援助をいつものように要求してくるのは見え見えである。

そもそも訳がわからないのが、韓国の対応である。

韓国が非核化の主導権を握ろうというのだろうか。

南北融和という芝居を究極目標の南北統一につなげようというのか。

北朝鮮は独裁国、韓国は民主国であり、東西ドイツのように簡単に統一には届かない。

経済的にも圧倒的な格差があるから、統一すると韓国経済は崩壊する。

だから、日米から経済援助を得ることを前提に統一を考えているのは当然である。

経済援助を得るには、非核化が前提になる。

非核化すると、北朝鮮は国家安定の切り札を失う。

そもそも独裁政権を維持して、国家統一はありえない。

ひとつの手は、金一族の自治区を何処かに作って、追放ではなくリザーベーションという保護区を作れば問題は解決する。

こんなことが実際に起こりえるかというと、100%ありえない。

この問題を真剣に考えている朝鮮民族がいるだろうか。