TaoChat@907編集後記

桜の花も満開で、暖かな3月最後の日を迎えた。

今回の言葉は、新生活スタートの方に送ろうと決めていた。

荘子の後だから老子にしようと決めた。

第24章の言葉は、これまでも何回か使った事がある。

無理して急いでも長くは続かない。

現代人にはうってつけの言葉である。

そんなに急いでどこにいく?

 長く続けられるのは、自分の身の丈にあった、ペースでこつこつやるしかない。

無理して背伸びしても、所詮無理は長続きしない。

例を挙げれば、高額の住居をローンで得ても、期待した給料の伸びは得られず、結局負債地獄に陥る。自分の収入に合ったローンしか組めない。

それをへんな背伸びを前提に借金するので、にっちもさっちも行かなくなる。

それでなくても、人生この先何が起きるかわからない。

そのための貯蓄をローンと平行にしていかねばならない。

であるから、新入社員は長期的に自分のライフプランをスタート時に描いておかねばならない。

メルマガでは、善き師を見つけることが大事と言った。

どのように自分のライフプランを立て、どのようにそれを遂行しているかをそばで眺められるのが、善き師である。

大事なのは、会社で出世することではない。

出世は結果である。

出世の前に、会社で何をして、社会にどのように寄与するかを考えることだと思う。

会社で学んだことは将来活きてくる。

新入社員ほど、新鮮な目で会社の課題を見ることができる。

会社のしがらみに染まる前に、会社で何をして、社会にどのように寄与するかを決めている人間を見つけたい。それが自分にとって善き師になるはずである。

 

TaoChat@906編集後記

「春眠暁を覚えず」というが、暖かくなってよく眠る。

昨夜10時にふとんに入って、起きたら6時だった。

6時間も眠れば十分だったが、8時間も寝たことになる。

暖かくなって虫が眠りから覚めたようだ。

今回は、荘子を選んだ。

斉物論から言葉を探した。その理由は、スケールの大きいモノの見方が書かれていて、新春のスタートに合っていると思ったからである。

でも、選んだのは「朝三」の話だった。

これは日常生活でしょっちゅうお目にかかる場面だから、目を引かれた。

荘子には、猿と猿使いの話が出てくる。

猿は、日常の自分である。

目先の得に目を奪われて、あくせくする。

一番当てはまるのは、高速道路における渋滞時の車線変更である。

空いている車線に車を移動して、隣の車より10メートル先に行く。

隣の車はさらに車線変更してさらに先を行く。

30分して、高速道路から降りて料金所についてみると、自分を追い越した車が、後ろにいたりする。

目先の得に目を奪われて行動するが、長い目でみれば、思った以上に損得は帳消しされている。

実際にはあくせくしているときに、追突事故を起こしたりする。

そんなときに「朝三暮四」を思い出したい。

ギャンブルも同じ。

カジノでスロットマシーンで大勝ちしているが、時間が経ってコインのバケツを見ると、空になっている。目先の幸運に目を奪われると、元手がマイナスになっても気づかない。元手が無くなった時点でやめるのが得策。授業料を払ってギャンブルできたと思えばよい。

そういえば、カジノは宿泊料、食事、飲み物が無料のところもある。カジノで負ける金額が宿泊料、食事、飲み物の合計の金額を上回れば、カジノの儲けになるから。

だから、美味しい話があるときは、「朝三暮四」を思い出したい。

自分が猿扱いされていないかのチェックである。

TaoChat@904編集後記

3.11東日本大震災から7年目になろうとしている。

あの日を境に人生が一転した方々を取り上げた番組があちこちで放映されている。

福島原発放射能汚染で故郷を追われた方は、あの日を思い出したくないかもしれない。

わたしも帰宅困難になり、家にたどり着いたのが夜の10時過ぎだったと記憶している。

その後、輪番停電になり、ろうそくで夜を過ごした記憶も残っている。

しかし、一番考えさせられたのが、生と死のことだった。

従って、今回は、それを考えさせる言葉を「淮南子」に見つけた。

大災害に直面し、生と死のはざまを漂い、運よく生き残った者に捧げる言葉である。

生き残ったことに罪悪感を覚え、心の傷を負う事もある。

生き残ったことは、生き残れなかった者からバトンを託されたことでもある。

身体は離れ離れになったが、心には生き残れなかった者の思いが残る。

それを自分なりに大事にして、生きる糧にする。

死者の精神は生き続ける。それがバトンを引き継ぐことだと思う。

前回は、読書の意味を考えた。

本には死者の精神が詰まっている。名著と呼ばれている本の著者はとっくに亡くなっている。しかし、著者の精神が各世代で引き継がれている。

その歩みが、家族ベースで引き継がれるのが、「淮南子」がいう精神だと思った。

その時の死者の精神は、言葉で表現するというより映像で表現されている。

自分がその映像を記憶し、それをどう解釈するかで、精神の深みは増してくる。

淮南子」は、生きる者に生きる糧を与えるのは、永遠に生き残るという。

自分が受け継いだ精神を言葉ではなく、行動や姿勢で示したとき、そしてそれを次世代が映像として記憶したとき、精神は初めて受け継ぎの機会を得る。

そこでは、言葉で表現する以上の影響力を精神は持っている。

大災害でなくても、生死の別れはやってくる。

そのときになって自分は何を遺せるか慌てるより、日頃から、いつ死んでも悔いのない生き方を示すのが、次世代へ伝える精神の磨き方といえるのかもしれない。

意がなかなか伝わらない現実

SonetがやっているNURO光の勧誘が3週間ほど前の日曜夜に我が家にあった。

代理店の営業で、それなりに良心的な説明があり、回線速度もフレッツの2倍で、ルーターに高速wifiが付くのですごくメリットがあるという。契約後も、不満ならクーリングオフも可能という。

そんなわけで、その場で契約した。

その後、NURO光の評判をネットで調べたり、今のプロバイダの契約料金や、メアド維持のための費用を考えると、NURO光の魅力が減り、契約をキャンセルすることにした。

その後の顛末が教訓的である。

まず翌日、NURO光のカスタマデスクに連絡し、解約の旨を伝えると、まだ代理店から契約の連絡が届いていないとのこと。

3日後、代理店に連絡して、解約の旨を伝え、担当者から解約完了を告げられて、ひとまず安心。しかし、私が懐疑的なのか、NURO光のカスタマデスクに再度連絡し、解約の旨を伝えると、担当者から解約完了を告げられ、やっと安心できた。

ところが問題はここで終わらなかった。

つい数日前、Sonetから、契約完了の書類が送られてきた。そこには会員番号や回線接続のためのデータが記載されている。おいおい、解約完了じゃなかったのかと憤慨。

再再度、代理店に連絡して、解約完了じゃなかったのかと問いただす。担当者は解約は受理されていますが、契約書類の発行部門は別なので、行き違いがあったかもしれないといい、今回の連絡で、解約完了は確実ですといわれた。しかし、それで安心できなかった。

翌日NURO光のカスタマデスクに再再度連絡し、担当者に解約完了していない旨を告げた。契約書類のデータを担当者に教えると、現在契約中になっていますと告げられ、唖然とした。この連絡を入れなかったら、そのまま工事業者が来て、すったもんだが起きていた。その場で、担当者に解約の確認をとって、契約書類廃棄の旨を告げられ、解約問題は落着したようだ。

今回の騒動で学んだことは、カスタマデスクの対応は非常にいい加減なこと、代理店とプロバイダの連携も悪い。顧客管理はデータベースで行われているが、解約に関しては、OKをもらっても安心してはいけません。何度か確認しないと、安心できません。

代理店には2回確認し、NURO光のカスタマデスクには2回確認し、やっと、契約書類廃棄の確認まで行けた。最後の教訓は、契約済みの消費者の声を聞かずに、簡単に契約しないことである。

TaoChat@903編集後記

今日はひな祭り。

我が家では、超ミニ雛のオンパレード。

ボートの上、トイレ、窓際、壁のあちらおちらに飾ってあります。

GOOGLEにもお雛様が現れます。

今日の言葉は、読書つながりで探しました。

大学生の5割超が、一日に、一度も本を開かないのは、もはや異常な世界です。

大学生には時間があります。

復習予習で本を開くはずですし、たとえバイトをやっても、途中の移動時間や、帰宅後寝るまでに時間はあるはず。

それなのに読書を一度もしないのは、活字が読めない、どんな本を読めばわからない、しか理由が思い浮かびません。

ということで、マルコムXの言葉を選びました。

自由時間が少ないほど、本を読みたくなるのは事実です。

刑務所の中は、スマホは使えないので、本を読むしか時間を過ごせないのは事実でしょう。いくら読書をしても、活字だけ目で追っても、人生を変えるほどにはならない。

読書して、作者(作中人物)の考えをたどっていかないと、意味はない。

どんな状況にめぐり合って、何を考え、どう行動するのか?

そう動くと、状況は好転せずにもっと悪くなるでは?と心配しながら読む。

あるいは最悪の結果になると思ったのに、運命が左右して、予想した結果にはならなかった。 そういった、いろんな思考とともに読書が進む。

それが、自分が同じ状況にはまったとき、落ち着いて思考する余裕を生む。

読書は、それだけ大切な行為となる。

大学生がそのチャンスを見逃している現実がある。

ビブリオバトルという、本紹介を競う大会がある。会社にいたころから、東京の決勝大会に聞きに行っていた。(今は、京都でも決勝大会が開催されている)

どんな本が面白いのか、そこで知ることもできる。

ソクラテスも言っている。

「良い本を読まない人は、字の読めない人と等しい。」

書かれた言葉は、思考の結果選択された言葉である。

「字を読めない」とは、先人の思考を追う能力がないことだと思う。

よい本を読まないと、先人の思考を追う能力を失うことになる。

自分の悩みなんか、先人の悩みに比べちっぽけだと思い知ることが、読書の力である。

自分中心主義のままでは、ひとは成長できない。

東京駅のカオス

通勤途上に東京駅がある。

時間帯によって、東京駅の通路がカオスになる。

通路を通って、ホームに上がるが、通路に人があふれて、ぶつかり合いながら、道を進んでいる。人の流れをうまくコントロールすれば、ぶつかり合うストレスは減るはずである。

ディズニーランドでは、入り口と出口が分かれているので、入場者と退場者がぶつかり合うことがなく、人の流れがうまくコントロールされている。

エアポートでも、飛行機から降りる人と乗る人は完全に分かれている。

東京駅は、ホームから降りる人とホームに上がる人がぶつかりあう。

通路が分かれていないために、このカオスが生じる。

なぜ、人の流れをコントロールしないのか不思議に思っている。

原因は、その発想が明治以来獲得されていないと思われる。

渋谷のスクランブル交差点も、カオスの表象となっている。

外国人には、このカオスが珍しいので、観光スポットの名所になっている。

流れを制御する道路は、ニューヨークのマンハッタンの碁盤目の道路で、一方通行を採用していることに現れている。

日本で人の流れを採用しないもうひとつの理由は、十分なスペースがないためもある。流れは、人同士の譲り合いの精神で決めようという発想である。

普段不思議に思わないと、この状況は永遠に変わらない。日本では当たり前だが、世界に出ると当たり前ではなくなる。

そんな不思議を感じないと、日本の不合理は永遠に変わらない。

 

万年筆の修理

10年使い慣れた、パイロット万年筆を床に落として、ペン先がねじれてしまった。書いてみたが字がかすれてうまく書けない。

直したほうがよいか買ったほうがよいかネットで調べた。

新しいのを買うと8000円程度。ペン先を交換して直すと5000円超。

パイロット本社が京橋にあり、そこの修理部に電話で聞いてみた。

故障の状況を見てみて、最悪ペン先交換だが直せる可能性もある。

だめもとで、今日本社修理部に自分の万年筆を持っていき、見てもらった。

そうすると、1000円で書けるように修理できると診断が出た。

自分で最悪の状況を決めつけて買うより、専門の修理専門家に見てもらうのが一番だと学んだ。

当たり前の結論だが、ペン先の損傷を目前にすると、交換を考えてしまう。

しかし、そこはまずは診断費用をはらっても、専門家に見てもらったほうがよい。たかが万年筆だが、長年連れ添った万年筆で、愛着が強い。

直して使えるなら、長く付き合いたい。

まるで古女房との付き合いに似ているが、できるだけ関係を修復して長く付き合うと、それだけ愛着が増してくる。

今回は、パイロットの修理部門に感謝感謝である。

ものを大事に使うのは、消費者の義務と感じた次第である。